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「沈黙 -サイレンス-」 沈黙は敗北を意味しない

 ありきたりな表現かもしれないけど、力強い物語を見たなあ、とそんな印象。映画館でこんな気分に陥ったのは、イニャリトゥ監督の「バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」以来かもしれない。

 

 長崎への密入国に始まり、異国での逃亡生活。幕府に見つかった後も、いつ自分が処刑されるかもわからない、そんな息の詰まるような緊息感が物語全体を取り巻いている。この映画がサスペンスとして一級品であることには間違いない。三時間近い長編作にもかかわらず、一瞬たりとも観客に飽きを許さないのだ。


 タクシードライバーという映画に初めて出会ったときのあの衝撃、スコセッシ映画特有の目に焼き付いて離れないそんな情景、それらは今作でも顕在している。霧掛かった九州の山道、江戸の町並み、そういった舞台背景はもちろん、やはり特筆すべきは塚本晋也演じるモキチが処刑されるシーンだ。大波押し寄せる岸壁で聖歌を口ずさむ光景は、もはや言葉では表現できないほど情景的で印象深い。原作は未読だが、この情景を文字媒体で再現するのはまず不可能だろう。


 もちろん、印象に残るからこの映画は凄い、なんて退屈なことを言うつもりはない。印象に残るということ、それはすなわち、そう簡単に忘れることはできない光景であるということだ。あの悲惨な光景を後遺症のように引き摺ることで、自分たちはようやく物語の核に一歩踏み出すことができる。どういう意味かといえば、つまりそれは、モキチの死が印象的であればあるほど観客は主人公の葛藤に寄り添うことができる、ということだ。あの死を無駄にしないために、あの光景を嘘という一言で終わらせないように、主人公はより一層、神という存在に執心するようになる。一向に救済の手を差し伸べてくれようとしない神に対し疑問を投げかけ、神の沈黙に真摯に向き合おうとする。そこで初めて彼は、ごくありふれた宣教師という立場から、本来あるべき信仰者として描写されるようになる。モキチの処刑シーンは、いわば彼にとってのターニングポイントだった。この出来事を境に、大衆を導くための布教活動は、神の沈黙の理由を探す旅に目的をすり替えていく。


 神はなぜ沈黙を保ったままなのか。この世に神は存在しないという証左なのか。アダム・ドライヴァー演じるガルペ神父は嘆き苦悶する。神職に身を捧げてきた彼にとって神の不在とは、単なる教義の喪失だけではない。生涯に渡り祈りを捧げてきた対象の消滅、それはすなわち自己の崩壊と同義なのである。

 

 目の前で起きるすべての出来事が巧妙に彼の精神を追い込んでいく。宣教師を棄教させる(転ばせる)こと反切支丹を撲滅するという幕府の意思変更、その大きな波に流されて、ガルペ神父は実質、拷問のような日々を強いられる。そして、価値観が崩壊する寸でのところで、それを後押しするかのように物語最大の山場が訪れる。彼は訪日した最大の目的であるロドリゴ神父との再会を果たすのだ。

 彼にとってロドリゴ神父は最後の希望だった。神父がたった一言、イエスの存在を肯定してくれればそれだけで彼は何の疑いもなく元の道に戻ることができたかもしれない。残念なことに、それは叶わなかった。ロドリゴ神父は既に棄教して(転んで)いたのだ。

「この地(日本)は沼だ。信仰が根付かない」

 ロドリゴ神父の説得にガルペ神父は激高、そして反論する。かつての師といえど、棄教した神父の言葉など彼にとって苦し紛れの言い訳のようにしか聞こえなかった。しかし、冷静に耳を傾ければ、ロドリゴ神父の指摘がいかに客観的で現状を見極めているのか見えてくる。

 

 かつてキリスト教という大きな物語がこれまでどれほどの悲劇を巻き起こしてきただろうか。聖書に書かれた言葉、その解釈の違いで世界はいくつもの国に分かれ、そこに住む多くの人々が血を流した。だからこそ神は自ら沈黙する道を選んだ。沈黙を選ぶことでしか人々を救済ことができなかった。何もせず口を閉ざすということ、一見、無慈悲にも思えるこの行為こそ、人々を救済するたった一つの手段だった。

 

 沈黙という行為の意味を理解したとき、ガルペ神父は自らもまた神と同じ道を選んだ。神と同じ方法で、人々を救うことを心に決めたのだ。その決意を誰に伝えるわけでもなく、自らの胸中に押し込めた。沈黙を貫くため彼はある条件をクリアしなければならなかった。それは「もの」対する拘りを捨てるということ。宗教における形式な行為、その一切を切り捨てる必要があった。形式に拘るということは周囲の人々に行動で示すということである。形式に拘ってしまえば、真の意味で沈黙を実践することは困難になる。

 形式からの脱却、その代表として絵踏を行うシーンが挙げられる。金属板に掘られたキリストの絵を踏むこと、それは神への侮辱に他ならない。しかしそれはまた同時に形式的な行為そのものだ。棄教しなければ教徒を殺すという幕府の脅しを受けて、ガルペ神父は最終的に踏絵を実行する。望まぬ形だったとはいえ、結局彼は自らの意志で十字架に掛けられたキリストの絵を踏みつけた。あのとき、心の中で彼は理解していたはずだ。キリストの絵を踏むことは、棄教を意味しないということを。周囲の人々に見せつけずとも関係ない。信仰は神と人の間でのみ成立するのだ。それ以外の誰にも示す必要はない。
 ちなみに、この絵踏という儀式は作中で何度も行われている。それだけ重要なシーンであるということだろう。個人的に面白いと思ったのは、この絵踏という儀式の描かれ方の変化だ。物語序盤から中盤にかけて絵踏は切支丹を判別するための検査装置に過ぎなかったにもかかわらず、物語終盤では、形式的な縛りから解放されたるための成長のための道具として用いられている。キリストの絵を踏む(越えていく)、という行為が価値観革新、精神的成長と結び付く部分は「なるほどこうくるか」などと思わず唸ってしまう。


 本題に戻そう。もちろん形式を捨てれば、周囲から理解を得ることは難しくなる。絵踏を実行したことによりガルペ神父は宣教師としての生きる道を完全に閉ざされた。しかし、宣教師という職に縋っているという事実も、形式に囚われていることの証左に過ぎない。形式を捨てた彼にとって宣教師という立場ですら、もやは足枷となる。


 幕府の傀儡に成り下がった後も、ガルペの信仰は続いていた。幕府の監査の目は厳しく、その後も絵踏のテストは続き、その度に彼は棄教の意を示していたが、それは見せかけの嘘に過ぎなかった。その証拠に、四十年間幕府に仕えた彼は長い人生の最期、仏教徒として火葬される際に、ガルペはモキチから受け継いだ十字架をしっかりと握りしめていた。生涯を掛けて貫いた沈黙に果たしてどんな意味があったのか。この映画を観た人であれば、それは明らかであるはずだ。


 自分の意見を殺して黙ることが素晴らしい、などという勘違いは間違ってもしてはいけない。たしかにそれは社会で生きていくビジネスマンには必須のスキルかもしれないが、集団圧力に屈してこの世に諦観する、なんてものがこの映画のタイトルである「沈黙」の指す意味では断じてないのだ。

 

安部公房の「砂の女」という小説にこんな一節がある。

「忍耐そのものは別に敗北ではないのだ。 むしろ、忍耐を敗北だと感じたときが真の敗北の始まりなのだろう」

 

 この作品は弱者に焦点を当てた反逆の物語だ。沈黙という言葉のイメージに纏う陰鬱さや諦観、そういったものはなく、静けさの中に潜む闘志がこの映画を支配している。沈黙は敗北を意味しない。むしろ、沈黙とは大きな物語に抗うための手段なのだ、という普遍的な題材がそこには眠っているのかもしれない。 

さて、ブログを書いてみましょう

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