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意味があれば気にしないですむ

ジャンル問わずフィクションの批評、解説やってます

「ラ・ラ・ランド」を観てきたのでアカデミー賞の話

業界人ウケする映画というのがこの世の中には一定数存在する。今年、アカデミー賞最多六部門を受賞した「ラ・ラ・ランド」もそういった類いの作品の一つだろう。

この映画を観た人ならば、容易に想像できると思う。というのも、ハリウッドの第一線で活躍するような業界人というのは、少なくとも人生で一度は、この映画の登場人物たちと似たような葛藤を経験をしたはずだ。明日食べていけるのかどうかもわからない残酷な世界に身を投じ、夢に憧れ、酔い、迷い、嘆き、そういった苦悩の末、最終的に流れ着いた場所がハリウッドのスポットライトの下であり、今の彼らの地位なのだ。

彼らの心のうちには「この作品には賞を与えなくちゃいけない」といったある種の使命感のようなものが働いているはずだ。映画好きに好かれるタイプの映画、映画好きなら評価しなければいけないタイプの映画、なんてそのような表現が適切かもしれない。

 

もちろん、それが駄目なんて言うつもりはない。「そうやってすぐ内輪ネタに走るから今の映画はくだらない」なんて、馬鹿丸出しの批判をするつもりもない。

そもそもの話、アカデミー賞というのは、アメリカ映画芸術科学アカデミーという名前の業界団体が決定する賞、つまり、業界人が業界人のために作った業界人のための賞のことだ。したがって、業界人たちが評価する映画が入賞するというのは、至極当然のことで、その事実も知らずに「アカデミー賞も落ちぶれたな」なんて指摘するのは見当外れもいいところだ。

また逆も然り。アカデミー賞を獲った=この映画は面白い、という方程式が必ずしも成り立つとは限らない。いくら映画好きに評価されたところで、その映画が万人ウケするかどうかは、やはり別の問題だ。そういう意味で、友人にオススメの映画を聞かれたとき、アカデミー賞受賞作品をチョイスするのは些か早計かもしれない。

 

遠回しな説明になってしまった気がする。閑話休題。話を戻そう。

この映画がアカデミー賞を獲れた理由は明白だ。ラ・ラ・ランドまさに映画好きのための映画だった。さらに言えば、他映画へのリスペクトもあるし、金はかかってるし、画も華やかだし、熱もあるし、おまけに夢までついてくる。

至れり尽くせりとはまさにこのことだろう。しかし、だからこそ同時にそこが弱点になるとも思うのだ。要するに隙がない。隙がないからこそ、この作品は手放しに褒めてしまえる。

 

超超超超当たり前のことだが、絶対的な評価なんてものは存在しない。絶対的な面白さというのも、この世のどこにもない。結局のところ、物語のテーマというのは個人の価値観や経験に根付くものだ。そこに気付かず、作品を手放しに褒めてしまうと、批評や感想というのは途端に面白くなくなる。そんな気がしてならないのだ。

 

結果的に、負け惜しみみたいな感想になってしまったが、今回話した「隙」のような話は、作品を語る上でかなり重要な部分になると個人的には考えている。「隙」とは作品の弱点のようなものだ。結局のところ、この「隙」を含めて作品を許容できるかという論争が、その作品を本当の意味で受け入れられるかという問題に繋がってくるのだと思う。 

・・・・・・「ラ・ラ・ランド」本編の感想はまた今度。

映画「虐殺器官」 ツッコミ不在の恐怖に、君は抗えるか

 

※原作「虐殺器官」を読んだ人向けの記事です。

 

 虐殺器官という小説を一つのブラックコメディとして捉えている人は意外と少ないかもしれない。

 自分にとって虐殺器官とは、最高に下品でなおかつグロテスクな形をしたブラックコメディだった。もし間違って吹き出したりでもした瞬間、周囲から不謹慎だと罵られるようなそんな質の悪いタイプの冗談。でも、そういった世間の凝り固まった生真面目な雰囲気すら、この小説はさらに笑いを助長させるためのスパイスとして転化してしまう。そんな悪意の塊のようで、しかしながら完全には否定できないそんなリアリティのあるところが、虐殺器官の魅力の一つだったように、今となって思う。

 

d.hatena.ne.jp

 

 物語終盤の独白、主人公のクラヴィス・シェパード大尉(以下、大尉)がある嘘を付いている可能性が仄めかされている。というか十中八九、主人公の台詞は嘘だ。そのように断言できる。

 

 

anond.hatelabo.jp

 

 「大嘘」でも指摘されているように、クラヴィスは、米国を除く全世界のために米国国内で虐殺の文法を発動させたわけではなかった。精神世界型の敵である彼は、世界中に屍者の光景を再現しようとした、というのが事の真相だろう。

 

 貴様ら拝金主義者と一緒にするな」狂信者の罵倒は聞き飽きていた。狂信のかたちは宗派に拠らない。どこにあっても似たり寄ったり。どんな戦場でも、どんな悲惨でも、同じような人間が同じようなことを言う。コメディ番組みたいだ、とウィリアムズはぞっとするほど朗らかな声で笑った。繰り返しはギャグの基本だからな、とつけ加える。(p.209)

 

 映画版でもウィリアムズが全く同じ台詞を呟いていたのを思い出してもらいたい。要するに、これと同じことを主人公クラヴィスはラストで繰り返したのだ。

 

  ぼくは罪を背負うことにした。ぼくは自分を罰することにした。世界にとって危険な、 アメリカという火種を虐殺の坩堝に放りこむことにした。アメリカ以外のすべての国を 救うために、歯を嚙んで、同胞国民をホッブス的な混沌に突き落とすことにした。とても辛い決断だ。だが、ぼくはその決断を背負おうと思う。(p.281)

 

 「とても辛い決断だ」なんて台詞は、実は真っ赤な大嘘で、本当は末尾に(笑)を付けてやるべきなのだ。それっぽい適当な言い訳を繕って、シェパード大尉は米国を混沌に陥れた。世界中のあらゆるテロリストたちと同じように「正義」のための虐殺を敢行した。 

 「ギャグの基本は繰り返しだからな」とは原作でのウィリアムズの発言。つまり、ラストの繰り返しオチも、ギャグの文法ということになる。

 

(解説厨を自称する作者が、これを説明しようとしなかった理由はなんとなくわかる。読者の解釈の幅を狭めてしまうという理由もあると思う。・・・・・・が、一番は

「はい、皆さん。実はここ笑うところなんですよ~」
なんて宣言されたら、いくら笑えるシーンでも笑えなくなってしまう。というかそれ、この記事にも当てはまることなのだが。むむむ。)

 

 

 さて、本題に戻ろう。映画の虐殺器官はどうだったか。
 ツッコミ不在の恐怖とはまさにこのことだろう。いや、むしろここまで徹底されていると意図的に排除された、そんな可能性すら視野に入れなくてはいけない。
 映画版と小説版の最大の違いは、主人公が死者の光景について興味を抱いてないという点だ。プロローグの主人公の語りをカット。母親の死を選択する病院のシーンも総カット。映画版のクラヴィス・シェパードはアレックスの死に直接的に関与したにもかかわらず、その死について考えを巡らす描写は一切なかった。


 これらの描写の有無が、物語の結末の解釈に大きな影響を及ぼすことは明白だ。なぜなら、原作小説においては、クラヴィスが死者の光景に興味関心を抱いたことが、米国国内で虐殺の文法を発動する動機と結びついていたからだ。


 死者という存在に対する興味関心がすっぽ抜けてしまっている以上、クラヴィス大尉は自らの「正義」とやらのために本気で「罪を背負った」ということになる。これはある意味、原作より残酷で無慈悲な結末だ。クラヴィス大尉は虐殺の光景に魅せられたのが原因ではなく、正義という名の下に平気で人を殺してしまった。

 虐殺器官を有していないなら、なぜ人は人を殺せてしまえるのか。

 答えは単純だ。そこに理想や目的がある。

 ただそれだけの理由で人は人を殺せるのだ。

 この映画に虐殺器官という理由付けはそもそも不要だった。

 そういうことにはならないだろうか。


 クラヴィス大尉の過ちというのは、本来、盛大に笑い飛ばしてやるべきだった。「アンタそれ、他のテロリストとやってること一緒じゃん! 嘘つくなよ! ホントは大量の死体見たいだけなんじゃないの!?」とそんな具合に。しかし、映画版は原作以上に、クラヴィス大尉のかましたボケにツッコむことが難しくなっている。先述した主人公が死の光景を引きずっていない、というのもその一因だろう。他にも、伏線として生きてくるはずのギャグ関連の文脈が抜けてしまったのは非常に痛い(何故かまさかのときの宗教裁判ネタだけ残っていたけど)。

 

 映画版におけるラストシーン。クラヴィス大尉は虐殺の文法を広めるため、米国全土に向けてジョンポールという人物について語り始める。まるで正義の体現者のそれであるかのように、彼の行いは清々しく描写されていた。しかしどうだろう。原作小説に準えて、あなたにも少しだけ考えてもらいたい。クラヴィス大尉の行動は果たして本当に正しかったのか。もしあなたが本気でクラヴィス大尉のように思い、考えることができたとしたらそれは危険なことだ。あるいはそうでなくても、この物語の説得力に騙されてしまったとしたら、あなたには自らの正義や理想のために虐殺を実行できる素質があるといえるかもしれない。

 それはまさに氏が予見した9・11以降の未来なのではないだろうか。

 

 テロリストや戦争を推進しているアメリカの人たちは、まさに「誰々人は敵」という単位で戦争をして、関係のない人を大勢巻き込んでいます。「しょせんはアメリカ人の」とかいう人は、こういうテロリストや戦争屋さんとまったく同じだと思って問題ありません。国内世論と自分の考えのズレについて思うだけで、そういうことが鈍感に過ぎるとは誰にでも容易にわかりそうなものですが、そういうことにはあまり考えがいかないようです。民族や国家という単位で人を扱いだした時、にんげんはいともたやすく無神経に、残酷に、すべてのにんげんは違うということに鈍感に、なれてしまうのです。

d.hatena.ne.jp

 

 原作の虐殺器官には、徹底したディテールとそれによって構築されたSFの世界観の中に、いくつもの悪意が散りばめられていた。もちろん、それを悪意と捉えるか、ありのままの事実の列挙として捉えるか、それを完璧な意味で判断することはできない。
 伊藤計劃という作家は死んだ。今頃、伊藤計劃後なんてキーワードを持ち出す気にはならないけれど、こういうことを気付かせてくれる人を、物語を通じて訴えてくれる人を、我々は純粋に一人失ったのだ。


 物語をどう捉えるか、そんなことは個人の自由だ。見たいものだけ見て、好きなように感じるしかない。結局、人はそのようにしかできていないし、その営みを停止させることは不可能だ。

 

 そもそも、自らの作品について語らない作者は、読者にとって初めから死んでいるにも等しい存在なのだ。作者が目前にいない以上、好き勝手にその物語について解釈するしか道はない。それはどのような物語にも救いがあると同時に、危険因子として成立するポテンシャルを秘めているのだ。作者不在の作品だからこそ、その事実を忘れていけないのだと思う。

「FF15」 父親に殺害されるノクト、その理由とは

※「FINAL FANTASY XV」は周回済み。「BROTHERHOOD FINAL FANTASY XV」と「KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV」は鑑賞済み。他FF作品は未プレイ。

 

発売からしばらく経ったので、肯定的な視点で見直してみようという試み。
元ネタになった映画『スタンドバイミー』を中心に掘り下げていく。

 

・叙事的でありながら、叙情的でもあった物語

 「すごいけど、なんだかよくわけわからん」という意見が多いのも無理はないと思う。というより圧倒的に描写不足なのだ、このシナリオ。タイタンがメテオを支えている理由も、リヴァイアサンが激怒した理由も、イグニスが失明する理由も、アーデンがプロンプトを生け捕りにして殺害しなかった理由も、イフリートが敵対する理由も、明確には描写されていない。全体的に説明に乏しいという指摘は的確だと思うし、今更そこに異議を唱えたところでどうしようもない。

 しかし、物語というのは発想を切り替えてみることで、今までになかった視点を獲得できることがある。今回の場合であれば「この説明の少なさはちょっと異常じゃない?」とそんな具合にだ。あなたがもし、善良な読み手であれば、話全体に不自然な流れがあったとき、そこに何らかの意図が介在しているのではないかと疑うべきだ。

 

 FF15をクリアしたとき、まず初めに「叙事」という単語が頭の中に浮かんだ。この「叙事」というのは

 

ヒーローの感動的な運命に感情移入することをつうじて、情緒を排出し、解消することを取り去って、筋の展開よりもヒーローの置かれている状況を描き、この状況への驚きを観客に求める。

叙事的演劇 | 現代美術用語辞典ver.2.0

 

 注意してもらいたいのは、普段我々が慣れ親しんでいるような叙情的物語と違い、叙事的物語というのは「状況への驚き」を物語の軸としているということだ。このとき、状況に対する理解は優先されない。どういうことかといえば、 〇〇叙事伝・〇〇叙事詩なんてものがあるように、叙事的であるということは要するに神話であるということだ。神について記述するということは、人の理の外にある出来事に遭遇するということであり、そこには「状況への驚き」は存在するが理解はない。今作のラスボスの言葉を思い出して欲しい。「神様の言葉は人間にはわからない。頭が痛くなる人もいるかもね」ということだ。


 FF15ゲーム本編には「創星記」という物語が登場する。「創星記」はイオスに纏わる神話で、その宗教画の中にはノクト一行の姿が確認できる。

 

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 本編開始の数百年前に描かれたという設定のこの宗教画に、なぜノクトたちの姿が描かれているのか。実をいうと、この「創星記」というのは神話は単なる御伽噺ではなく、未来に起きる出来事を記述した預言書なのだ。ゲームをクリアしたユーザーなら、その内容が「FF15」本編と一致していることに、すぐ気付くだろう。

 

 またどうやら「創星記」の存在は、イオス全体に広く伝わっているらしい。ルーナの演説の内容を多くの市民が理解、賛同していたことからも、その事実は窺える。加えて、国王レギスも、息子であるノクトの運命を知った上で、彼を旅立たせている。物語の始まりにも「創星記」は関わっている。

 

 ゲームをプレイしているだけでは一見、おまけ要素のように見える「創星記」だが、「FF15」の物語全体に大きな影響を及ぼしているということが、ご理解いただけただろうか。極端な言い方をすれば、「FF15」というゲームは「創星記」を再現するゲームなのだ。ノクトたちの旅そのものが一つの神話である以上、物語は叙情的ではなく叙事的に語られていくことになる。

 

 冒頭の話に戻ろう。FF15」をクリアして「すごいけど、なんだかよくわからん」という感想を抱いたとしたら、それは当たり前の結果なのである。繰り返すが、筋より状況への驚きを優先するのが叙事的物語だ。そこに理解は優先されない。製作者が狙って作った、という他に理由はないのだ。

 

 さて、流石にこれだけでは終われない。
 今の叙情的な語りを無視した、という指摘に違和感を覚えた人もいるだろう。

 訂正しよう。FF15はキャラクター主体の叙情的物語でもある。神という理解不能な存在を描きつつも、一方で、各キャラクターの感情に寄り添うような、そんな直感的で分かり易い物語を追求している。

 一見、矛盾しているように聞こえるかもしれないが、そうではない。これは描き分けの問題だ。FF15は、物語展開は叙事的に、キャラクターは叙情的に、それぞれ語られる必要があった。


 個人的には、この部分が物語を解釈する上で、混乱を引き起こす原因になったのではないかと考えている。
 例を挙げてみれば、水都オルティシエでの戦闘でイグニスが失明して帰ってくるシーン。あの失明のイベントには大した意味がないという指摘もあるが、そんなことはない。ちゃんと必然性があるのだ。

 創世記の絵画を確認してもらえればわかると思うが、目に包帯をした一人の男が神の従者として登場している。先述の通り、FF15は神話の再現する物語だ。絵画に描かれいるのがノクト一行である以上、その中の誰か、イグニスは必ず失明しなければいけなかった。


 「・・・・・・いやいや待て。そこが問題じゃないんだって。そもそもあの胸糞悪いだけの無意味なイベントを用意したのは脚本家だろ? ならメタレベルでイベントを改編することも可能だったはず――」


 たしかに、もっと別の形で登場人物たちの苦悩を描くことは容易だったはずだ。わざわざ胸糞悪い失明イベントを採用せずとも、ノクト一行の成長をドラマチックに演出することはできた、そのはずだ。それでもあえて、このような惨状を選んだのは、それだけ「FF15」が叙事的な物語展開に固執しているという証左なのだろう。

 もし「FF15」が叙情的物語なら、失明イベントは悪手だったかもしれない。あの展開を望んだユーザーは誰一人としていなかったという意味なら、まさに「誰得」だ。

 しかしながら「FF15」は、それ以前に叙事的な物語展開を約束されていた。イグニスの失明は「状況への驚きを優先」した結果、採用されたのだ。

 一方で、この理不尽な失明について登場人物たちがどう処理するのか。この問題は後に、イグニスが仲間に自らの意思表明することで解決する。この箇所は叙情的に語られてるのだ。

 

 登場人物たちがそのときどのように思ったか感じたのかではなく、あくまで状況そのものへの驚きを優先すること。そして、登場人物たちはその状況に振り回されるだけの存在に過ぎないという事実を認識させること。「FF15」が目指したゲーム体験の軸はまさにここにあった。

 

 そしておそらく、なぜそんな事件が起きてしまったのか、そういった理由付けがごっそり抜け落ちてしまっているのは、これが原因だろう。状況そのものへの驚きを第一にもっていからこそ、『FF15』は説明することをあえて避けたのだ。「説明」によって「驚き」は「納得」へと姿を変えてしまう。「驚き」を優先するためには「説明」を犠牲にしなければならなかった。


 FF15はキャラクター主体の物語でもあるため、その出来事に対して登場人物たちがそれぞれ気持ちの整理をつける必然性は当然、生じてくる。が、それはあくまでキャラクター間での補完に留まらなくてはいけない。彼らが生きる世界、そこで起こる出来事というのは叙事的に構築されている。理不尽なイベントが存在する明確な意味も説明もそこでは描かれることはない。そこに残るのは、やはりそれぞれの解釈だけなのだ。

 

 

FF15とスタンドバイミーの関係性

 「ぶっちゃけ神様の話なんてオレどーでもいいんですよ。もっと感情に寄り添うような胸に熱いモノが込み上げてくる、そんなストーリーを期待してたのに。というかアレよ、元ネタの「スタンドバイミー」だって神様がどーとかそんな話じゃなかったでしょう。青春を振り返ってノスタルジーに浸る内容じゃん」・・・・・・といった人のために補足すると、実は「スタンドバイミー」という作品、非常に宗教色の強い作品なのである。

 

 「FF15」と「スタンドバイミー」最大の共通点、それは通過儀礼を経て成長を遂げることだ。『映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方 (ちくま文庫)』の中で島田裕巳氏は通過儀礼について次のように語っている。 

 

通過儀礼とは、人間が人生の節目をむかえ、ある状態から別の状態へと変わっていく際に、節目を越えたことを確認するために行われる儀式のことである。

 

 映画「スタンドバイミー」においてレイ・ブラワーという少年の死体を探す旅は、まさに通過儀礼そのものだった。死体を見つけるため、子供たちは道中いくつもの困難に遭遇し、その壁を乗り越え成長していった。

 FF15も基本的にこれと同じ流れを汲んでいる。つまり、六神巡りやファントムソード集めは、彼らが世界の救世主という存在に到るための形式上の通過儀礼なのだ。成人式や結婚式のイベントと同じで、喩えそれ自体に意味はなくても次のステージに移るためには必要とされる工程なのだ。

 これらの要素は一見、ストーリーと上手く噛み合っていないように見えるため、そもそも必要だったのかと疑問視されることがある。しかし、「創星記」に記されていることを再現するならば、これらの儀式は欠かせないものだったといえるのだろう。

 

 

ノクトは成長できたのかという問題

 気になるのは、この通過儀礼によってノクトは本当の意味で大人になることができたのかという問題だ。「スタンドバイミー」では、兄デニーが恐れたエースという存在を親友のクリスと共に追い払うことで、主人公ゴーディの精神的成長を描いている。ゴーディが大人になるため物語上に通過儀礼が用意されていた。

 一方で、六神巡りやファントムソード集めはどちらかというと形式上の通過儀礼に過ぎない。言ってしまえば、本人の心が大人だろうが子供のままだろうが、そんなことはお構いなしに物語は成立してしまうのだ。

 

 さて、ノクトの成長が明確に描写されたシーンはあるだろうか? ノクトは壮大な旅を通して最終的に大人になったと言えるのか?
 これは難しい問題だと思う。王としての器を見せたからこそ、最終的にアーデンを撃破できたとも言えるし、それは成り行き上の話で、結局、ノクト自身は自発的に成長しようとしなかった、という見方もできる。
 個人的な意見としては、成長したのではなく無理矢理成長させられた、という印象のほうが強かった。かの有名な「やっぱ辛えわ」発言はそれを端的に表しているといえるだろう。また、そのように解釈すればFF15のテーマである「自己犠牲」にも上手く話が繋がってくる。

 

 

「父殺し」の物語ではなく「父に殺される」物語

 ラストシーン、アーデンの復活を阻止するため玉座へと戻るノクト。その後、彼は王の剣を召還する。ノクトは歴代ルシス王に次々と串刺にされて、最期は実の父親であるレギスに心臓を刺される。その後、救済が用意されているとはいえ、なんとも悲痛な幕引きだ。

 再びスタンドバイミーの話に戻ってみる。スタンドバイミーには死体探しの旅の中、主人公が家族の夢を見るシーンがある。主人公の兄はいわゆるエリートというやつで、スポーツで優秀な成績を修めている。いうまでもなく周囲から将来を有望視されいる。そんな兄の突然の死。夢の中で父は息子に向かって一言、こう告げる。

「・・・・・・お前ならよかったのに」

 自分が父親から愛されていないと思い込むゴーディ。彼はキャンプで親友のクリスに自らの苦悩を打ち明ける。するとクリスは父親の代わりにお前を支えてやるとゴーディに誓う。小説家としての道を進むことを決意するゴーディ。


 これこそ先ほどの本のタイトルにもあった「父親を殺す物語」の本当の意味だ。


 主人公は父親を否定して、友人の力を借りて自らの運命を切り拓いていった。それまで絶対的な壁として立ち塞がっていた父親という存在を棄却して、敷かれたレールの上から敢えて外れていく道を選択した。
 FF15のストーリーラインはスタンドバイミーと似ているようで、実は大きく異なる。つまるところ、前者は「父親に殺される話」で、後者は「父親を殺す話」に要約されるのだ。


 父親を殺す物語というのは前述の通り、父親を越えていく物語であった。では、父親に殺される話とは何を指しているのか。 順当に考えればそれは「父親に託された道を肯定して予め用意された運命(宿命)を受け入れる」という意味になるだろう。


 FF15のシナリオは「こんな展開は間違っている。俺が悪いんじゃなくて世界が悪い。だから俺が無理矢理この世界の仕組みを捻じ曲げてやるぜ」といったありがちな熱血少年バトル漫画的なストーリー展開をがっつりと否定している。むしろその逆で、それよりも遙かに消極的で現実的な「一人の青年が責任を果たすためにあらゆるものを犠牲にする」という選択に執着しているのだ。


 スタンドバイミーでは、ゴーディは父親を殺して大人になった。一方、FF15ではノクトは父に殺されて大人になった。いずれの作品も大人になる過程を描いたものだという点には変わりない。ただFF15の場合、大人になるということは、責任を持つということ、そして、その責任を果たすためにはあらゆる犠牲を覚悟しなければならないこと(仮にその対象が己の命だったとしても)。この物語は大人になるということを、そのように定義して強調している。


 パッケージの裏に書かれた「父と子の物語」とは十中八九、この「父親に殺される物語」のことを指している。予め定められた運命に従うこと、それこそが「父と子の物語」の本来の意味だ。第一章の時点でレギス国王は死亡していたが、たとえ父親が本篇に殆ど登場しなくても、「父親に殺される物語」というのは実は成立するのだ。

 

おわりに

 「FF15」でノクトが父親に殺される理由、それはノクトが悲劇的な運命を受け入れるための儀式に他ならなかった。

 馬鹿みたいに長ったらしい文章で語っておいて何だが、正直このテーマが「FF15」をプレイするようなユーザーにウケかどうかは甚だ疑問だ。しかし、こうやって何かしら語らせる要素があるということこそ、今のゲームには必要なのかもしれない。まんまとFF15」の罠に嵌まったというわけだ。

 

「沈黙 -サイレンス-」 沈黙は敗北を意味しない

 ありきたりな表現かもしれないけど、力強い物語を見たなあ、とそんな印象。映画館でこんな気分に陥ったのは、イニャリトゥ監督の「バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」以来かもしれない。

 

 長崎への密入国に始まり、異国での逃亡生活。幕府に見つかった後も、いつ自分が処刑されるかもわからない、そんな息の詰まるような緊息感が物語全体を取り巻いている。この映画がサスペンスとして一級品であることには間違いない。三時間近い長編作にもかかわらず、一瞬たりとも観客に飽きを許さないのだ。


 タクシードライバーという映画に初めて出会ったときのあの衝撃、スコセッシ映画特有の目に焼き付いて離れないそんな情景、それらは今作でも顕在している。霧掛かった九州の山道、江戸の町並み、そういった舞台背景はもちろん、やはり特筆すべきは塚本晋也演じるモキチが処刑されるシーンだ。大波押し寄せる岸壁で聖歌を口ずさむ光景は、もはや言葉では表現できないほど情景的で印象深い。原作は未読だが、この情景を文字媒体で再現するのはまず不可能だろう。


 もちろん、印象に残るからこの映画は凄い、なんて退屈なことを言うつもりはない。印象に残るということ、それはすなわち、そう簡単に忘れることはできない光景であるということだ。あの悲惨な光景を後遺症のように引き摺ることで、自分たちはようやく物語の核に一歩踏み出すことができる。どういう意味かといえば、つまりそれは、モキチの死が印象的であればあるほど観客は主人公の葛藤に寄り添うことができる、ということだ。あの死を無駄にしないために、あの光景を嘘という一言で終わらせないように、主人公はより一層、神という存在に執心するようになる。一向に救済の手を差し伸べてくれようとしない神に対し疑問を投げかけ、神の沈黙に真摯に向き合おうとする。そこで初めて彼は、ごくありふれた宣教師という立場から、本来あるべき信仰者として描写されるようになる。モキチの処刑シーンは、いわば彼にとってのターニングポイントだった。この出来事を境に、大衆を導くための布教活動は、神の沈黙の理由を探す旅に目的をすり替えていく。


 神はなぜ沈黙を保ったままなのか。この世に神は存在しないという証左なのか。アダム・ドライヴァー演じるガルペ神父は嘆き苦悶する。神職に身を捧げてきた彼にとって神の不在とは、単なる教義の喪失だけではない。生涯に渡り祈りを捧げてきた対象の消滅、それはすなわち自己の崩壊と同義なのである。

 

 目の前で起きるすべての出来事が巧妙に彼の精神を追い込んでいく。宣教師を棄教させる(転ばせる)こと反切支丹を撲滅するという幕府の意思変更、その大きな波に流されて、ガルペ神父は実質、拷問のような日々を強いられる。そして、価値観が崩壊する寸でのところで、それを後押しするかのように物語最大の山場が訪れる。彼は訪日した最大の目的であるロドリゴ神父との再会を果たすのだ。

 彼にとってロドリゴ神父は最後の希望だった。神父がたった一言、イエスの存在を肯定してくれればそれだけで彼は何の疑いもなく元の道に戻ることができたかもしれない。残念なことに、それは叶わなかった。ロドリゴ神父は既に棄教して(転んで)いたのだ。

「この地(日本)は沼だ。信仰が根付かない」

 ロドリゴ神父の説得にガルペ神父は激高、そして反論する。かつての師といえど、棄教した神父の言葉など彼にとって苦し紛れの言い訳のようにしか聞こえなかった。しかし、冷静に耳を傾ければ、ロドリゴ神父の指摘がいかに客観的で現状を見極めているのか見えてくる。

 

 かつてキリスト教という大きな物語がこれまでどれほどの悲劇を巻き起こしてきただろうか。聖書に書かれた言葉、その解釈の違いで世界はいくつもの国に分かれ、そこに住む多くの人々が血を流した。だからこそ神は自ら沈黙する道を選んだ。沈黙を選ぶことでしか人々を救済ことができなかった。何もせず口を閉ざすということ、一見、無慈悲にも思えるこの行為こそ、人々を救済するたった一つの手段だった。

 

 沈黙という行為の意味を理解したとき、ガルペ神父は自らもまた神と同じ道を選んだ。神と同じ方法で、人々を救うことを心に決めたのだ。その決意を誰に伝えるわけでもなく、自らの胸中に押し込めた。沈黙を貫くため彼はある条件をクリアしなければならなかった。それは「もの」対する拘りを捨てるということ。宗教における形式な行為、その一切を切り捨てる必要があった。形式に拘るということは周囲の人々に行動で示すということである。形式に拘ってしまえば、真の意味で沈黙を実践することは困難になる。

 形式からの脱却、その代表として絵踏を行うシーンが挙げられる。金属板に掘られたキリストの絵を踏むこと、それは神への侮辱に他ならない。しかしそれはまた同時に形式的な行為そのものだ。棄教しなければ教徒を殺すという幕府の脅しを受けて、ガルペ神父は最終的に踏絵を実行する。望まぬ形だったとはいえ、結局彼は自らの意志で十字架に掛けられたキリストの絵を踏みつけた。あのとき、心の中で彼は理解していたはずだ。キリストの絵を踏むことは、棄教を意味しないということを。周囲の人々に見せつけずとも関係ない。信仰は神と人の間でのみ成立するのだ。それ以外の誰にも示す必要はない。
 ちなみに、この絵踏という儀式は作中で何度も行われている。それだけ重要なシーンであるということだろう。個人的に面白いと思ったのは、この絵踏という儀式の描かれ方の変化だ。物語序盤から中盤にかけて絵踏は切支丹を判別するための検査装置に過ぎなかったにもかかわらず、物語終盤では、形式的な縛りから解放されたるための成長のための道具として用いられている。キリストの絵を踏む(越えていく)、という行為が価値観革新、精神的成長と結び付く部分は「なるほどこうくるか」などと思わず唸ってしまう。


 本題に戻そう。もちろん形式を捨てれば、周囲から理解を得ることは難しくなる。絵踏を実行したことによりガルペ神父は宣教師としての生きる道を完全に閉ざされた。しかし、宣教師という職に縋っているという事実も、形式に囚われていることの証左に過ぎない。形式を捨てた彼にとって宣教師という立場ですら、もやは足枷となる。


 幕府の傀儡に成り下がった後も、ガルペの信仰は続いていた。幕府の監査の目は厳しく、その後も絵踏のテストは続き、その度に彼は棄教の意を示していたが、それは見せかけの嘘に過ぎなかった。その証拠に、四十年間幕府に仕えた彼は長い人生の最期、仏教徒として火葬される際に、ガルペはモキチから受け継いだ十字架をしっかりと握りしめていた。生涯を掛けて貫いた沈黙に果たしてどんな意味があったのか。この映画を観た人であれば、それは明らかであるはずだ。


 自分の意見を殺して黙ることが素晴らしい、などという勘違いは間違ってもしてはいけない。たしかにそれは社会で生きていくビジネスマンには必須のスキルかもしれないが、集団圧力に屈してこの世に諦観する、なんてものがこの映画のタイトルである「沈黙」の指す意味では断じてないのだ。

 

安部公房の「砂の女」という小説にこんな一節がある。

「忍耐そのものは別に敗北ではないのだ。 むしろ、忍耐を敗北だと感じたときが真の敗北の始まりなのだろう」

 

 この作品は弱者に焦点を当てた反逆の物語だ。沈黙という言葉のイメージに纏う陰鬱さや諦観、そういったものはなく、静けさの中に潜む闘志がこの映画を支配している。沈黙は敗北を意味しない。むしろ、沈黙とは大きな物語に抗うための手段なのだ、という普遍的な題材がそこには眠っているのかもしれない。 

さて、ブログを書いてみましょう

 小説、漫画、映画、ゲーム関係なくフィクションに該当するもの、あるいはそれに準じるものについて批評なり感想なりをつらつらと書き連ねていきます

 文章表現の練習も兼ねるためエントリーごとに文体は変わるかもしれません

 細かいルールを決めてしまうと続かなそうなので何を書くかはそのときの気分で決めます。基本的に制約は設けませんが、ある程度読み応えのある記事を作成するため、ルールを一つだけ追加します。

 ※作品(フィクション)に対する愚痴・中傷は記事の対象としない

 理由はいくつかありますが、それは追々説明するとして

 いつまで続くかわかりませんが、よろしくお願いします