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虚構、創作あるいはフィクションに纏わる話

映画「虐殺器官」 ツッコミ不在の恐怖に、君は抗えるか

 

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 虐殺器官という小説を一つのブラックコメディとして捉えている人は意外と少ないかもしれない。

 自分にとって虐殺器官とは、最高に下品でなおかつグロテスクな形をしたブラックコメディだった。もし間違って吹き出したりでもした瞬間、周囲から不謹慎だと罵られるようなそんな質の悪いタイプの冗談。でも、そういった世間の凝り固まった生真面目な雰囲気すら、この小説はさらに笑いを助長させるためのスパイスとして転化してしまう。そんな悪意の塊のようで、しかしながら完全には否定できないそんなリアリティのあるところが、虐殺器官の魅力の一つだったように、今となって思う。

 

 

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 物語終盤の独白、主人公のクラヴィス・シェパード大尉(以下、大尉)がある嘘を付いている可能性が仄めかされている。というか十中八九、主人公の台詞は嘘だ。そのように断言できる。

 

 

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 「大嘘」でも指摘されているように、クラヴィスは、米国を除く全世界のために米国国内で虐殺の文法を発動させたわけではなかった。精神世界型の敵である彼は、世界中に屍者の光景を再現しようとした、というのが事の真相だろう。

 

 貴様ら拝金主義者と一緒にするな」狂信者の罵倒は聞き飽きていた。狂信のかたちは宗派に拠らない。どこにあっても似たり寄ったり。どんな戦場でも、どんな悲惨でも、同じような人間が同じようなことを言う。コメディ番組みたいだ、とウィリアムズはぞっとするほど朗らかな声で笑った。繰り返しはギャグの基本だからな、とつけ加える。(p.209)

 

 映画版でもウィリアムズが全く同じ台詞を呟いていたのを思い出してもらいたい。要するに、これと同じことを主人公クラヴィスはラストで繰り返したのだ。

 

  ぼくは罪を背負うことにした。ぼくは自分を罰することにした。世界にとって危険な、 アメリカという火種を虐殺の坩堝に放りこむことにした。アメリカ以外のすべての国を 救うために、歯を嚙んで、同胞国民をホッブス的な混沌に突き落とすことにした。とても辛い決断だ。だが、ぼくはその決断を背負おうと思う。(p.281)

 

 「とても辛い決断だ」なんて台詞は、実は真っ赤な大嘘で、本当は末尾に(笑)を付けてやるべきなのだ。それっぽい適当な言い訳を繕って、シェパード大尉は米国を混沌に陥れた。世界中のあらゆるテロリストたちと同じように「正義」のための虐殺を敢行した。 

 「ギャグの基本は繰り返しだからな」とは原作でのウィリアムズの発言。つまり、ラストの繰り返しオチも、ギャグの文法ということになる。

 

(解説厨を自称する作者が、これを説明しようとしなかった理由はなんとなくわかる。読者の解釈の幅を狭めてしまうという理由もあると思う。・・・・・・が、一番は

「はい、皆さん。実はここ笑うところなんですよ~」
なんて宣言されたら、いくら笑えるシーンでも笑えなくなってしまう。というかそれ、この記事にも当てはまることなのだが。むむむ。)

 

 

 さて、本題に戻ろう。映画の虐殺器官はどうだったか。
 ツッコミ不在の恐怖とはまさにこのことだろう。いや、むしろここまで徹底されていると意図的に排除された、そんな可能性すら視野に入れなくてはいけない。
 映画版と小説版の最大の違いは、主人公が死者の光景について興味を抱いてないという点だ。プロローグの主人公の語りをカット。母親の死を選択する病院のシーンも総カット。映画版のクラヴィス・シェパードはアレックスの死に直接的に関与したにもかかわらず、その死について考えを巡らす描写は一切なかった。


 これらの描写の有無が、物語の結末の解釈に大きな影響を及ぼすことは明白だ。なぜなら、原作小説においては、クラヴィスが死者の光景に興味関心を抱いたことが、米国国内で虐殺の文法を発動する動機と結びついていたからだ。


 死者という存在に対する興味関心がすっぽ抜けてしまっている以上、クラヴィス大尉は自らの「正義」とやらのために本気で「罪を背負った」ということになる。これはある意味、原作より残酷で無慈悲な結末だ。クラヴィス大尉は虐殺の光景に魅せられたのが原因ではなく、正義という名の下に平気で人を殺してしまった。

 虐殺器官を有していないなら、なぜ人は人を殺せてしまえるのか。

 答えは単純だ。そこに理想や目的がある。

 ただそれだけの理由で人は人を殺せるのだ。

 この映画に虐殺器官という理由付けはそもそも不要だった。

 そういうことにはならないだろうか。


 クラヴィス大尉の過ちというのは、本来、盛大に笑い飛ばしてやるべきだった。「アンタそれ、他のテロリストとやってること一緒じゃん! 嘘つくなよ! ホントは大量の死体見たいだけなんじゃないの!?」とそんな具合に。しかし、映画版は原作以上に、クラヴィス大尉のかましたボケにツッコむことが難しくなっている。先述した主人公が死の光景を引きずっていない、というのもその一因だろう。他にも、伏線として生きてくるはずのギャグ関連の文脈が抜けてしまったのは非常に痛い(何故かまさかのときの宗教裁判ネタだけ残っていたけど)。

 

 映画版におけるラストシーン。クラヴィス大尉は虐殺の文法を広めるため、米国全土に向けてジョンポールという人物について語り始める。まるで正義の体現者のそれであるかのように、彼の行いは清々しく描写されていた。しかしどうだろう。原作小説に準えて、あなたにも少しだけ考えてもらいたい。クラヴィス大尉の行動は果たして本当に正しかったのか。もしあなたが本気でクラヴィス大尉のように思い、考えることができたとしたらそれは危険なことだ。あるいはそうでなくても、この物語の説得力に騙されてしまったとしたら、あなたには自らの正義や理想のために虐殺を実行できる素質があるといえるかもしれない。

 それはまさに氏が予見した9・11以降の未来なのではないだろうか。

 

 テロリストや戦争を推進しているアメリカの人たちは、まさに「誰々人は敵」という単位で戦争をして、関係のない人を大勢巻き込んでいます。「しょせんはアメリカ人の」とかいう人は、こういうテロリストや戦争屋さんとまったく同じだと思って問題ありません。国内世論と自分の考えのズレについて思うだけで、そういうことが鈍感に過ぎるとは誰にでも容易にわかりそうなものですが、そういうことにはあまり考えがいかないようです。民族や国家という単位で人を扱いだした時、にんげんはいともたやすく無神経に、残酷に、すべてのにんげんは違うということに鈍感に、なれてしまうのです。

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 原作の虐殺器官には、徹底したディテールとそれによって構築されたSFの世界観の中に、いくつもの悪意が散りばめられていた。もちろん、それを悪意と捉えるか、ありのままの事実の列挙として捉えるか、それを完璧な意味で判断することはできない。
 伊藤計劃という作家は死んだ。今頃、伊藤計劃後なんてキーワードを持ち出す気にはならないけれど、こういうことを気付かせてくれる人を、物語を通じて訴えてくれる人を、我々は純粋に一人失ったのだ。


 物語をどう捉えるか、そんなことは個人の自由だ。見たいものだけ見て、好きなように感じるしかない。結局、人はそのようにしかできていないし、その営みを停止させることは不可能だ。

 

 そもそも、自らの作品について語らない作者は、読者にとって初めから死んでいるにも等しい存在なのだ。作者が目前にいない以上、好き勝手にその物語について解釈するしか道はない。それはどのような物語にも救いがあると同時に、危険因子として成立するポテンシャルを秘めているのだ。作者不在の作品だからこそ、その事実を忘れていけないのだと思う。