暫定語意

虚構、創作あるいはフィクションに纏わる話

映画「ラ・ラ・ランド」 渋滞に鳴り響くクラクション


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 最近観た映画の中でいえば、「ラ・ラ・ランド」は断トツにわかりやすかった。
 夢を追い求める者ならば誰しも、何を貫き何を犠牲にするか、その問題にはまず間違いなく直面する。なぜならば、人は夢を追うだけでは生きていけないからだ。世間を無視する行動をとり続ければ、それだけ周囲との軋轢が生まれる。夢を追うこと、それは犠牲を選択することと等しいともいえるのだろう。

 

 

 ストーリーは単純明快。それでも、どうしても引っ掛かるポイントがひとつだけあった。何かというとそれは、ロサンゼルスのハイウェイで人々が一斉に踊り出すシーン。あまりにも鮮烈なオープニングに、心を奪わた観客も少なくはないだろう。
 猛烈な違和感を覚えた理由、それは一つだ。なぜ、彼らは何の脈絡もなく踊り出したのか、その意図がどうしても掴めなかった。彼らは一体何者で、なぜ急に踊り出したのか。物語が中盤に差し掛かっても、その謎は一向に明かされないままだった。


 そもそもの話、ミュージカル映画では、こちらがビックリするようなタイミングで歌い出すことが多い。わけのわからないタイミングで曲をぶっ込んでくる、それ自体は珍しくない。

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 登場人物の心境を歌として表現するのがミュージカル、ということであれば、歌は感情表現の延長線上にあるということになる。もしその感情が何の前触れもなく爆発したとき、観客は登場人物たちの心境を理解できないまま歌を聴かされることになる。ミュージカル映画を鑑賞する観客が「置いてきぼりにされた」と感じるのは、まさにこの瞬間だろう。


 さて、ハイウェイのシーンはどうだったのか、もう一度考えてみたい。感情の発露により彼らが踊り狂ったというのは、まあ納得できなくもないが、結局彼らが何者だったのかという問題は一向に解決しない。歌うという行為が登場人物たちの心境を汲み取るのに一役買ってくれれば良いのだが、なぜ彼らが楽しそうだったのかは、結局のところわからない。


 「ラ・ラ・ランド」全体から観ても、このシーンは異色であったように感じる。冒頭にも記したとおり「ラ・ラ・ランド」の魅力の一つに「わかりやすさ」というものがあった。たとえ40年代から50年代の伝統的なジャズに詳しくなくても、現実や夢に浸るロマンチシズムというものには誰もが共感できる。世間から理解されない苦しみ、そういったものを題材にする一方で、「ラ・ラ・ランド」は不理解による「わかりにくさ」を徹底的に排除した作品だった。そしてそれはミュージカル映画という性質に対しても存分に発揮されていたように感じる。
 というのもハイウェイ以外のミュージカルシーンでは常に「流れ」というものを意識していたはずだった。パーティーに出掛けるとき(Someone in the Crowd)、セブとミアが恋に落ちた瞬間(A Lovely Night)、オーディションの最中(The Fools Who Dream)などなど。これらすべてのシーンには、いつ曲が流れてもおかしくない、そんな雰囲気に包まれていた。感情の変化が物語によって十分描かれていたため、彼らの感情の昂ぶりに対してそこまでの違和感を覚えることはなかった。

 


 ハイウェイのシーンの違和感を存分に感じ取ってもらったところで、ハイこれでお終い、というのも流石に歯切れが悪い。ということで、結局あのシーン何だったのかということについてもう少し掘り下げてみたい。


 キーワードは「渋滞」だ。この映画で渋滞シーンに遭遇するタイミングは二回ある。一度目はいうまでもなくオープニングシーン、そして二度目は、ラストシーン。
ハリウッドで女優として大成したミアは、夫とのドライブの途中で渋滞に捕まる。このとき、脇道に逸れることで彼女は難なく渋滞を回避する。


 渋滞を抜けたのは、彼女がハリウッドで大成したことのメタファーである。渋滞を抜けた=夢を叶えたという事実を意味しているのだ。その証拠として、渋滞を越えた先には、彼女と同じく長年の夢を叶えたセブが待機している。


 さて、既にご理解いただけたと思うが、一応説明しておきたい。冒頭の渋滞シーンで踊っていたのは、それぞれの夢を追うロマンチストたちだった。渋滞というのは夢が叶うその瞬間を待たされ続けていることを意味し、さらに、彼らが愉快そうな表情を浮かべて「 Another Day of Sun 」を歌い出すのは、いくら困難な状況に直面しても、それを乗り越えられる夢をもっているから、ということに他ならなかった。


 ちなみに、渋滞に紐付くメタファーはもう一つある。それはサブの車が鳴らすクラクション音だ。あの耳障りな騒音は、作中でも周囲から度々疎まれているいるが、唯一、同じく夢を共有するミアにとっては騒音ではなくなっている。冒頭の渋滞シーンでは、クラクションに暴言を吐くが、その後、セブと親密な関係を築き上げていくにつれ、騒音はお互いの居場所を知らせるためのツールとして描かれるようになっていく。理想を追い求めるその姿は周囲にとっては単に鬱陶しいものでしかないのかもしれない。しかし、二人にとってはまさにそれこそお互いを引き寄せ結びつける強い絆になるのだ。

 

 音を大事にしているミュージカル映画にとって、クラクションのような煩わしい音は、本来であれば、マイナスの意味をもつ記号になるのかもしれない。しかし、「ラ・ラ・ランド」ではこのクラクション音を否定もしなければ、肯定もしなかった。あくまでも一歩引いた目線で、二人の幸福を見守り、その鬱陶しさを遠回しなやり方で表現したのである。単に二人の恋路と夢だけを追うロマンチズムに溢れた映画であれば、冒頭シーンでクラクションが鳴り響くことは、まずあり得なかっただろう。

 


 というわけで、今回は「ラ・ラ・ランド」のメタファーを追ってみた。一見、わかりやすいストーリーであっても、隠し要素があることが多く、そういう意味で物語というのは、やはり侮れない。