暫定語意

虚構、創作あるいはフィクションに纏わる話

ストーリー理解を深めたい人向けの『ひるね姫』解説

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 神山健治監督作品「ひるね姫」のストーリーがよくわからなかった人向けの解説記事。非常に完成度の高い作品なので、もっと理解を深めたいという人は是非、この記事に目を通して欲しい。

 

 

アーサー・C・クラークが定義したクラークの三法則の「高度に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」という言葉をヒントにした「いつも描いているテクノロジーを魔法に置き換えてみよう」という発想でした。

社会の大きな問題と切り結ばない作品を作る意味はあるのか、神山健治監督が「ひるね姫」に込めたものとは? - GIGAZINE

 

GIGAZINEインタビューでの神山監督の発言を抜粋。


 今回の「ひるね姫」の内容はとにかくこれに限る。現実と夢が入り混じる曖昧な世界で、神山監督が何を描きたかったものとは何か? 結局のところそれは、過去においては空想の産物でしかなかったテクノロジーの数々が、既に現実のものになりつつあるということなのかもしれない。

 

・なぜロボットが登場するのか

 夢の中で、全自動運転技術の代替として活躍するエンジンヘッド。その造形はなんというか某アニメに登場するそれを彷彿とさせる。

 アニメで見かけるいかにもな感じの巨大ロボと、最近ニュースでも話題になっている全自動運転車、実をいうとこの二つには大きな共通点がある。両者ともハードウェアとソフトウェア、さらに言えば操縦士、この三つが揃った時点で、ようやく真っ当に機能するという点だ。

 

神山監督の師匠ともいえる押井守監督。その代表作の一つに「機動警察パトレイバー the Movie(以下劇パト1)」が挙げられる。

 

本作はロボットアニメとしては“リアルロボット系”に属する。しかし、従来的な巨大ロボットものにおけるような「異世界からやって来た様な」「遥か未来を想像した」ものではなく、「現実の20世紀中に存在した技術からさして遠くない世代の工業生産品」としてのロボデザインが従来作品と一線を画する点である。そのため、それまでの巨大ロボットアニメが描いてきた「スーパーヒーローと悪の戦い」あるいは「戦争」等のような現代日本人にとっての“非日常”ではなく、現実の“日常”に自然に巨大ロボットが溶け込んだ情景描写が、強いリアリティをもっている。

機動警察パトレイバー | 機動警察パトレイバー Wiki | Fandom powered by Wikia

 

 パトレイバーの企画コンセプトは「実社会に適応した巨大ロボットを生み出す」というものだった。もちろん、フィクション上でしか成立しない巨大ロボットという存在をリアルに落とし込むには、それなりの工夫が必要になる。その工夫の一つが、巨大ロボットを制御するためのソフトウェア、つまり、オペレーティングシステムを導入するというアイディアだった。


 「劇パト1」では、機体(ハードウェア)に搭載されたOS(ソフトウェア)が制御不能な状態に陥ってしまったらどうなるのか、という問題について触れている。「劇パト1」が公開されたのは1989年。1996年にインターネットが誕生し、そこでようやく世間一般にコンピューターが普及し始めたことを考慮に入れると、「ロボットにOSを導入する」というアイディアがいかに時代を先取りしたものだったのか想像するのは難しくない。また、逆の見方をすれば、コンピューターも無い時代に「巨大ロボットにオペレーティングシステムを搭載する」という発想が生まれたというのは、それくらい違和感のないごく自然な論理展開だったのだろう。


 しかし、とはいったものの、やはりフィクションというのは、どこまでいってもフィクションでしかない。「巨大ロボットにオペレーティングシステムを搭載する」という発想が、いかにリアリティのある設定だったとしても、所詮、巨大ロボットというのは妄想の産物に過ぎないのだ。そもそも話、「実社会で生きるロボットを作る」というコンセプト自体、矛盾の塊みたいなものであり、どうやったって巨大ロボットなんて馬鹿げた夢は実現しようがない。

・・・・・・少なくとも、ついこの間までなら、そのようなことも言えたのかもしれない。

 

  あれから二十八年、当時では考えられないようなテクノロジーがいくつも誕生した。コンピューター、インターネット、携帯電話、スマートフォンクラウド、最近の話題に限れば、人工知能ビッグデータ、そして、IoT。全自動車技術もそのうちの一つだ。それまで人の感覚に頼らなければいけなかった操作を、コンピューターに一任するという奇抜な発想。言うまでもなくそれはハードとソフトの融合に他ならない。


 ハードウェアとソフトウェアと操縦士、この三位一体の関係性は、エンジンヘッドと全自動運転車、そのどちらの技術にも当てはまる。二十七年前では「夢」に過ぎなかった巨大ロボット技術、それと同じコンセプトで動くマシンが完成に近づいているという事実。正直これは驚くべきことではないだろうか。
 演出の都合上、ココネの夢にロボットが出現した。無論それだけではない。全自動運転車と巨大ロボットの関係性、これに気付くことでようやく「ひるね姫」にロボットが登場した理由について考察できるのだろう。

 

・ココネはなぜ夢を見るのか

 夢と現実が入り混じる「ひるね姫」の世界観に混乱したという人も少なくないかもしれない。「夢パート必要だった?」なんて感じてしまった人も中にはいるだろう。しかし、やはりというかそれはナンセンスなツッコミだ。なぜかといえば、夢と現実の区別がつかない世界に我々は生きているということ、そして、今我々の生きる現実が夢に近づいていること、これこそ「ひるね姫」という作品が目指した終着点だったからだ。


 物語序盤、主人公のココネが見る夢は彼女だけが知る夢でしかない。夢の中で彼女は自由だ。空想の世界のお姫様エンシェンとして、やりたい放題好き勝手に遊んでいる。

 しかし、物語が進むにつれて、その夢が現実世界に影響をもたらすという事実が判明する。夢の中で起きたことが今度は現実世界にも反映されるようになり、さらに、その夢を他人と共有できる、という事実まで明らかになる。自動運転で大阪へ移動してしまった後、怪しい人物に狙われていることに気付いたココネの幼馴染みモリオが「今すぐ夢を見ろ!」なんてココネに信じられないような台詞を吐くシーンがあるが、あれはココネの夢が現実に対してそれほど強い影響力があるということを示唆しているのだろう。(いや、単なるギャグシーンか)


 新幹線で居眠りするシーンで、ココネの夢は母親の記憶に纏わるものだということが判明。これも重要なシーンだといえる。その夢が誰のものなのかという問題は、誰の夢が現実に反映されているのかという疑問に直結するからだ。ココネの母親は全自動車技術の開発者だった。つまり、夢とは全自動車技術の実現を指しているのである。


 最終的にココネの夢は、登場人物たち全員が共有するような大きなものへと変貌していく。序盤から中盤にかけては現実と夢が交互に描かれていたのに対し、クライマックスではもはや夢と現実の区別がつかなくなっていく。この変化は一体、何を意味しているのか? そう、答えは簡単だ。夢が現実に成り代わるということ、イコールそれは夢が叶うということだ。ココネの見た夢は、ココネの母親が見た夢だった。その夢が叶うということは、全自動車技術の実現を願った彼女の夢が、現実に反映されたということを意味している。


 最後にもう一つ。ココネの母親が見た夢は、いつの間にか全員の夢になっていた。多くの人と未来のビジョンを共有すること、もしそれが夢を叶える(夢を現実にする)ための条件だというのなら、物語が進むにつれて夢の規模が大きくなった理由も、なんとなく察しがつくだろう。

 

・高度に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない

 全自動運転技術を技術的革新と捉えるか、あるいは大した技術ではないと判断するか、それは人それぞれだろう。しかしながら、過去のある時点において、あらゆる技術はすべて革新的なものだった。旧石器時代から見つめればマッチは大した発明品だし、中世時代からしたら宇宙ロケットなんて信じられないような発明だろう。


 もし「巨大ロボットなんて作れない」と断言する輩がいれば、それは嘘だと教えてあげるといい。どんな果てしない未来の技術も、常に現実の技術の延長線上にある。巨大ロボット技術は全自動運転技術の延長線上にあったように、未来の可能性というのも今この瞬間と連続的に繋がっている。

 

 「高度に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」

 

 アーサー・C・クラークはクラーク三原則でそのように言い遺した。もし、どんな夢も叶うのだとしたら、我々はいつか魔法の世界で生きることになるのだろう。少なくとも、我々の生きる現実は「魔法の世界」、言い換えれば「夢」に向かって着実に進んでいるのだ。