暫定語意

虚構、創作あるいはフィクションに纏わる話

映画「キングコング: 髑髏島の巨神」 弱肉強食では語れない強さ

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 この映画に弱肉強食というフレーズはあまりしっくりこない。神に見放された存在から消えていく、という方向性で観たほうが色々と納得できる内容だと思った。というのも、純粋な強さ比べをさせるならば、コングに知性を備えた闘い方をさせるべきではなかったし、知性まで含めて弱肉強食だと主張するなら、今度は、人間側の振る舞いに疑問が生じてくる。


 怪物たちもひっくるめ、この映画の登場人物たちは、神に見放された者から脱落していく。たしかに、サバイバルにおいて強さという指標は重要だ。しかし、それ以上に運が無ければ生き残れない。本作はその事実を強く意識しているのだと、個人的には感じた。

 


 一番わかりやすい例で言えば、髑髏島に住む人間の部族だ。彼らは島の守護者であるコングを絶対的な神として崇めている。神に見放された瞬間、彼らを出迎えるのはスカルクローラーの大顎とリバーデビルの巨大な脚、つまり、絶対的な死だ。部族の存在それ自体が、信仰と死の関係性を強調している。


 ところで、髑髏島の住民たちは言葉を持たなかった。これはおそらく、神(コング)とのコミュニケーションに言葉は不要、ということなのだろう。コングはある程度の知性を備えているが一方で言葉をもたない。住民たちは自身の正当性を、非言語コミュニケーション、つまり、態度や行動で示さなくてはいけないのだ。そういう意味で、ブリー・ラーソンがコングの目の前でヘリコプターの下敷きになったバッファローを助けたのは、全滅エンド回避に導くファインプレーだった。逆にアレがなければ全員、コングに惨殺されて終了という展開も考えられたのだろう。いや、流石にないか。


 それにしても何から何までスケールのデカイ神である。機銃の一斉掃射を受け深手を負ったにもかかわらず、島の野生動物一匹助けただけで赦しを与え、オマケに生命保険まで付けるとは。なるほど、この神は器までデカイ。


 コングと島の住民たちが声のなき信頼関係を築き上げる一方、やたらと会話する癖に結束力ゼロという悲しき存在、それが我ら人間である。 周囲の説得に対して、まったく聞く耳を持たないサミュエル・L・ジャクソン。見事なまでに死亡フラグを乱立させる彼が、一体いつ血飛沫を上げるのか。もはや恒例となった「マザーファック」の台詞と併せて、待ちわびた観客は数知れない。


 今思えば、大佐のパッカード大佐率いる部隊の敗北は、物語開始時点で既に決定していたのかもしれない。今回、舞台の背景となったベトナム戦争は、アメリカの無敗神話に唯一傷を付けた戦争でもある。敗戦の記憶を引き摺る彼らは、コング討伐で仲間の無念を晴らそうと意気込む。しかし残念なことに、勝利の女神に見放された状態では、その結果は見えている。

 

 

 本題に戻ろう。この物語の軸が弱肉強食ではないと思う最大の理由は、キングコングとスカルクローラーの決戦シーンにある。ラストの闘いは、正直どちらが勝利しても違和感がないほど拮抗していた。人間側を味方につけたのがコングの勝因という仮説もイマイチ納得できない。ブリー・ラーソンを救出しようとしてコングは窮地に陥っているし、勝敗を分けるキーにはなっていないはずだ。

 

 では結局、何が勝敗を分けたのか。暴力や知力では図れない領域で勝敗が決するとしたら、それは運以外に考えられない。コングがスカルクローラー勝利できた最大のポイントは、映画の神――つまり、監督に愛されていたことだろう。コングが勝利できたのは、コングが勝つと監督が決定したからである。


 身も蓋もない話になってしまったが、この映画はそういう理屈が通用する、あるいは、通用してもいいと思わせてくれる、そんな映像体験を提供してくれる。


 今作はエンドロールで伏線が張られ、続編の可能性が仄めかされていた。キングギドラゴジラが登場するようだが関係ない。ネタバレしよう。次もコングが勝つ。コングが監督という映画の神に見放されない存在であり続ける限り、コングは常に勝利し続けるのだ。