自分探しの旅に出た家出少女が、自分探しの無意味さに気付き、国家警察所属の全身サイボーグ人間になって、母親の待つ家に帰宅する話。
文章化すると物凄いインパクトだが、扱っているのは「自分探し」というありふれた題材。哲学で扱うテーマとしては初歩的かつ古典的という印象すら受ける。よくわからんという人はデカルトの身体論でググればそれでよし。
やってることは古臭いのに、そこはやはりハリウッド。数十年前の技術では再現不能な領域の中にあるのは、たぶん間違いない。そういう意味では、最高級のカップラーメンを食べてる気分になれる。押井監督はこれらの均衡を奇妙だと評したのだろうか。
哲学に限らず、どんなジャンルでも、深掘りしていくとエンタテインメント性が削がれていくわけで、もしそれなりに売れるもの作ろうと考えるならば、特にテーマ選びには慎重にならなくてはいけない。
おそらく観客も無意識的にそのことを理解していて、どういうことかというと、フラっと暇つぶしに立ち寄った映画館で大抵の人が求めるのは「人生観を根底から覆すような体験」ではなく「そこそこ美味い料理」ということだ。そんな「そこそこ美味い料理」を目まぐるしいスピードで大量生産する興行的かつ工業的手法を確立したハリウッドという場所は、やはりというかなんというか恐ろしい。
近い将来、世界中のエンタメ作家たちはハリウッドの手によって絶滅に追いやられるかもわからない。
ちなみに、この実写版攻殻機動隊は、士郎正宗の攻殻機動隊と押井守の攻殻機動隊と神山健治の攻殻機動隊をミキサーにかけてジュースを作った・・・・・・というわけではなく、こんなこともあろうかと予め用意しておいたデザートのソースとして再利用している、そんな印象が強い。そういう意味では、この映画自体が全身義体のサイボーグみたいなものだ。
というわけで、そこらのへんの要素をこの映画に期待している人がいたら案外、肩透かしを食らうかもしれない。あくまでも、シーンの再現に留めているところが、この映画の良いところでも悪いところでもある。そう考えると、攻殻機動隊という作品群が歩んできた軌跡と立ち位置も含めて、やはりこの映画は奇妙だといえるのかもしれない。
久々に映画を観て悶々としてしまい、今回は変なことばかり書いてしまいましたが、スカーレット・ヨハンソンとビートたけしを観に行くだけでも十分観に行く価値あります。別にフォローとかなんでもなく、時間的経済的余裕のある人は是非、映画館に足を運んでみてくださいな。