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意味があれば気にしないですむ

虚構、創作あるいはフィクションに纏わる話

映画『ノー・エスケープ 自由への国境』 解説と考察 

 

監督はホナス・キュアロン。
キャストは、ガエル・ガルシア・ベルナルジェフリー・ディーン・モーガン他。
原題は「No Escape

 

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 本編開始から僅か数十分足らずで、物語は大きく動き出す。


 アメリカ合衆国への不法入国を試みるメキシコ人集団が、ある一人の男に命を狙われる。砂漠地帯を横断する一行。彼らの遙か後方から男が忍び寄る。中年のその男は高台からスナイパーライフルを構えると、不法入国者たちに向け銃撃を開始する。最初の犠牲者はガイド役の男だった。銃声が聞こえたとき、不法入国たちの目の前には、すでに死体が転がっていた。すぐさま事態の異常性を察知した彼らは、叫び声を上げ、遮蔽物のない砂漠地帯を当てもなく逃げ惑う。

 


 射程距離内に入った不法入国たちを、男は冷徹に、そしてあくまで事務的に射殺していく。まるで嫌な仕事を押し付けられたと言わんばかりに、その慣れた手付きで淡々とリロードを繰り返す。中年の男には殺人という行いに対して一切の躊躇いがなかった。その証拠に、目の前で恋人を殺害されて泣き喚く女性に、彼は無慈悲にも銃口を向け引き金をひく。


 あまりにも一方的な虐殺風景であるために、観る人が観れば猛烈に気分を悪くするかもしれない。しかし、その感覚こそ作品を追う上で何より重要な手掛かりとなる。虐殺の理由を探るため、あれこれと考えを巡らすことができるというわけだ。この虐殺シーンは、本作をより深く考えてもらうためのきっかけ作りであり、そして、物語の流れを決定付けるターニングポイントでもある。なので、ヘイトクライムだと指摘するのは些か早計であるように感じる。

 

 

 

 

 

 さて、本作にはほとんど会話シーンが存在しない。登場人物たちは「逃げろ」か「伏せろ」か「危ない」以外の言葉をほとんど発しない。ということはつまり、必要最低限に抑えられた描写から、内容を察しなければいけないということである。
 本作の台詞の少なさについても、一考の余地があるのかもしれない。

 

「なぜ彼がこんなに冷血な殺人者なのか、なぜこの役がこの状況に置かれているのかなど、悪役を演じる時はそういったことを考えている」

スタッフ突撃レポート:【動画】『ノー・エスケープ 自由への国境』ジェフリー・ディーン・モーガン、悪役を演じるときに考えることとは? | 海外ドラマNAVI

 

 

 冷徹な殺人鬼サム役を演じたジェフリーはインタビューでこのように答えている。
 実は全くその通りで、このサムという男、なぜ不法入国たちを狙うのかという直接的な説明が作中で一切出てこない。彼が相棒のトラッカーに向けて呟く断片的な台詞とその行動パターンから、観客は辛うじて彼のパーソナリティを組み立てることができる。


 一つわかることがあるとしたら、サムは公的な治安部隊に属さない、いわば自警団であるということである。これは序盤の警察とのやり取りでしっかりと描かれているが、不法入国を通報しても動かない警察の代わりに、サムは移民を追い払う役を自ら買って出ているらしい。愛国者という表現が正しいだろうか。おそらく、彼のライフル銃と特徴的な帽子も、独立戦争時代のミニットマンに由来しているのだろう。


 背景不明の殺人鬼サム。なぜ、製作サイドがこのような見せ方を選んだのか、その理由は二つ考えられる。
 まず一つ目は、純粋にサスペンスとして盛り上げるためだ。もし、サムに明確な人格を与えれば、観客はサムに同情してしまう可能性がある(あくまでまともな人格だった場合)。これをやってしまうと、追い掛ける側にも追い掛ける側の理由があるのだと観客が納得してしまうため、サスペンスとして致命的欠陥を抱えることになる。


 そして二つ目は、実はこれが作中で最も重要なポイントなのだが、サムの人格を隠すことこそ監督の狙いであり、「ノー・エスケープ」という作品の本質であるという仮説である。


 ハッキリと描写されていないというだけで、不法入国たちを惨殺するサムにも何かしらのバックボーンは存在するはずである。例えば彼自身、自分は一人孤独に国を守っていんだ、とそのように考えているのかもしれない。アメリカの抱える移民問題を誰よりも身近に感じ、人一倍危機感を抱いていたがゆえに、結果的にあのような凶行に及んだ可能性が高い。そうでなければ、わざわざ辺境の土地で犬と二人で「狩り」をしようとは考えもしないはずだ。彼がキャンプシーンで露わにしたあの怒りは、もはや我々の想像を遙かに凌駕する次元に位置していたのかもしれない。一方で、その怒りが一体何によって暴走したのか、世界情勢に詳しい人ならば想像するに容易だろう。


 さて、想像すればするほどサムの人格が明らかとなっていくが、ここらで一度ストップして、先ほどの問題に戻りたい。問題とは、会話が一切存在しないという状況こそ本作が一番描きたかった光景なのではないかという話だ。今試してみたように、少し想像を巡らせば、相手の置かれた状況というのはある程度、予想することができる。しかし、本作ではこのようなお互いを理解しようとする工程が意図的に削除されてしまっているのだ。描かれているのは、不気味なまでの沈黙と虐殺の光景である。両者はお互いの国籍を確認すると、あとは興味がないよと言わんばかりに憎悪をぶつけ合う。憎しみは憎しみを増長させ、最終的にそれは私的な殺し合いへと発展していくのだ。


 会話が発生しない状況こそ「異常」であることに我々は気付くべきなのだ。お互いのこともよく理解せず、無言で銃口を向ける「無意味さ」と「虚しさ」を本作は浮き彫りにしている。

 

 

 

  終盤、サムの相棒であるトラッカーが主人公に殺害されてから物語の流れは一変する。
それまでの糸を張りつめたような緊張感は薄れ、その代わりに、疲弊した男たち悲痛な「鬼ごっこ」が幕を開けるのである。特に岩山シーンの逃走劇が印象的だ。まるで犬が自らの尻尾を追い回すように何度も周回を繰り返し、途中で岩の上に昇ってみたり、昇ったと思ったら今度は降りてみたり。まるで家臣から逃げるため城内を駆け回るバカ殿のコントのようである。


 サスペンスとしては異常なまでのテンポの悪さ。物語の進行を遅延させているのには、もちろん理由がある。必要以上に用意された空白の時間は、今までの経緯を振り返るための時間である。


 なぜ、国境の線を跨ぐだけで人と人が殺し合っているのか。そもそも、事の発端は何だったのか。考えれば考えるほど、その無意味さに気付き、途端にやるせない気持ちになってくる。馬鹿馬鹿しくなってくる。なぜこんなことをしているのか。どうしてこんなことになったのか。この殺し合いに一体どれほどの価値があるのか見出せなくなってくる。


 スタッフロール直前で、ハイウェイを見つけた!と歓喜する主人公を見ても、そこに大きなカタルシスは感じられない。彼がこれまで一体何に振り回されてきたのか。それを想像すると、アメリカでの生活に幸せが待っているとは到底思えない。主人公以外の唯一の生き残りであるヒロインについても重傷を負っていたはずだ。主人公が必死に砂漠を横断して背負ってきた彼女は、既に死体ではないのか。それらの不安要素は解消されることはなく、物語は終わりを迎える。

 

 

 

 この旅で誰が何を得たのか、考えれば考えるほど馬鹿らしくなってくる。彼らは等しく失ったのだ。だからこそ、本作をラストを飾るに相応しいのは空虚感である。そしておそらく、その感情を想起させるためだけに、この映画は作られたのかもしれない。