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「夜明け告げるルーのうた」 解説と考察

 監督 湯浅政明
 脚本 吉田玲子

 

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 内気な少年カイが人魚ルーと知り合い、次第に心を解放していく、そんなお話。


 高校生バンドのサクセスストーリーのように見せながら、一方で、思春期な少年と純粋無垢な人魚との心の触れ合いをやってみたり、よくある漁村の揉め事を扱ったと思えば、今度は、民族伝承が紛れもない現実として立ち塞がり村全体を襲ってみたりと、なかなかやりたい放題である。もちろんそれは、物語として一貫性に欠けるという意味ではなく、テンポ良く展開を転がすための工夫に相違ない。事実、それぞれ小出しにしていた諍いは、物語終盤には綺麗さっぱり片付いてしまう。ギャグも丁寧に挟んでくれるし、そういう意味で、本作は観客に優しいエンタメ系映画といえるのかもしれない。

 

 「心から好きなものを、口に出して『好き』と言えているか?」という監督の発言通り、物語の焦点は「好きなことを好きと告げる」というその一点に絞られている。

 

 物語のヒロイン、気に入ったものを見つけては好き好きと節操なく連呼する人魚ルーは、言わずもがな作品のテーマを体現するキャラクターである。基本人外でありながら、彼女は、大好きな音楽を聴いている間だけ人の子供の姿に変身することができる。この設定は、単にパラソルを持った女の子を浜辺で踊らせるために用意したものなのか。否、そうではない。人魚から人への変身は、種族間の繋がりを意味している。「人魚とは何か」「人間と人魚の違いは何か」といった謎を紐解くヒントになり得るはずだ。

 

 人魚にあって人に欠落しているもの――それは「好きなことを好きと告げる」ための「素直さ」に他ならない。人魚を「素直さ」の象徴する記号として仮定すると、好きなことに没頭している間だけ人魚は人の姿になるという物語上の設定は、好きなことに没頭しているときだけ人は素直になれる、というメッセージに置換することができる。要するに、ルーが大好きな音楽を前に人の姿に変身できるのは、人は好きなことに真摯に向き合える――好きなものの前では素直でいられることを意味している。心から好きなことに対してならば人も人魚のように素直な存在になれる、といった前向きな意味合いが、この設定に込められているのだろう。

 

 好きなものに素直になる、といった現象について趣味や仕事の世界ならば理解しやすいかもしれない。音楽に熱中していた主人公カイや、傘作りの職人であるカイの祖父は見事その一例に当てはまる。では、もっと広い視野で考えてみたらどうか。たぶんそれは地域愛や愛国心、さらには博愛主義に代表される言葉に姿を変えるだろう。


 さて、今のように概念や行為単位でならば好きなものに素直であることはそれほど難しいことではない。では、好きなものの対象が「人」であった場合、これはどうなるのか。おそらく、途端に事情が変わってくるはずだ。他人の顔を窺うからなのか、気恥ずかしいだけなのか、あるいは、ツンデレなのか。親子愛だろうと恋愛だろうと、人は好きな「人」を前に思ったように振る舞えない。素直になれないものである。


 それでも、素直になれるタイミングというのは少なからず存在する。例えば「好きなもの」の立場が脅かされたとき、窮地に陥ったとき、人はそれを「守ろう」と画作する。大抵の人間は、自分の趣味を侮辱されたらまず間違いなく反論するだろう。自国の領土が奪われればそれは戦争へと発展していくはずだ。作中の話題でいえば、漁村としての立場の維持するため人魚ランド再興を反対した村民もこれと同じだ。遊歩の祖父は愛する故郷を復興させるために人魚ランドを計画し、一方で、村民たちは代わり映えのない日常を守るためデモンストレーションをした。お互いが「好きなもの」を守るため衝突する、そんな光景である。軋轢とはお互い大切なものを守ろうとした結果、自然と生じるものなのだ。

 お互いが好きなものために守るため衝突する、という構図は作中で何度も繰り返される。例えばそれは、ルーの父親が炎に身を包まれながら娘の危機に駆けつける場面だ。

 

 実はこのとき娘の危機を目の前にして暴走した父親がもう一人いた。遊歩の父親である。事の発端は、家出中の遊歩が「人魚に攫われた」とSNSで嘘のメッセージを残し、それを遊歩の父親が見つけ、人魚の捕縛を実行に移したことである。ファイアシャークトルネード(?)なルーパパの登場で見落とされがちだが、実はこれ、父親VS父親という物理的にもシチュエーション的にも熱いシーンなのだ。普段は娘の顔色ばかり窺い、父親(遊歩の祖父)に会社の実権を握られてしまう頼りない遊歩の父だが、このときばかりは、海老名水産を私軍化し人魚絶対殺すマンとして剥き出しの感情を露わにする。まさに「好きなものに素直になる」を象徴するシーンであり、「好きなもののために守るために争う」代表的なシチュエーションである。娘の危機に駆けつける父親の姿を、人魚と人間の立場からそれぞれ対等に描いている。

 

 「村の在り方」、「種族」、その次にくる相手は「自然」である。物語終盤、大規模な水害が漁村全域に襲いかかり深刻な被害をもたらす。人魚の叫び声を引き金に呼応する「おかげ様」は、人魚を想定外の危機から救う自動防衛システムに近しい存在である。この「おかげ様」と「人魚」の関係性は、先述の例における「父親」と「娘」の繋がりと酷似している。本場面においても「好きなもののために守るために争う」光景は再現されるのである。


 「おかげ様」の暴走を食い止めるという共通の目的のもと、登場人物たちは種族という壁を乗り越え一丸となる。大局的に物事を俯瞰することによって、お互い好きなものを守ろうとしていた、という事実をようやく認め合うのである。かくして人と人魚との誤解は解け、その代償として、人魚は漁村から去って消えるのである。

 

 本作は、好きなことを好きと告げるという光景を「歌」や「行動」、さらに「言葉」に変換して再現しようと試みた。そしてそれは湯浅監督含める制作陣の態度、要するに、アニメーション表現にも同じように顕れている。


 ひたすら繰り返される光景を見届けて、どのような感想を抱くかは人それぞれだろう。気恥ずかしさのあまり目を逸らす観客も中にはいたかもしれない。あるいは、大人向けではない、という魔法の言葉で誤魔化してみせるかもしれない。

 

 しかし残念なことに、それは本作が目指した世界ではなかったはずだ。その気恥ずかしさを乗り越え先に、本作で描かれた光景は存在していた、そのはずだ。


 では一体どうすればいいか。手始めに「素直」になることから始めてみるといいだろう。たぶん今より少しだけ気楽になれるはずだ。