暫定語意

虚構、創作あるいはフィクションに纏わる話

映画「パトリオット・デイ」 当事者と外野の温度差

監督 ピーター・バーグ

キャスト マーク・ウォールバーグケビン・ベーコン 他


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 日本から遙か約一万㎞、太平洋を越えた彼方の地で発生したテロリズムを我々日本人はどのように認識できるか。突き放すような他人行儀で冷たい物言いであることは承知の上、それでもあえて言わせてもらうならば、現地と接点を一切もたない人々にとって液晶ディスプレイ上で放映される記録映像は、所詮一つのフィクションに過ぎない。たとえそれがどれだけ生々しくリアリティのある体験だったとしても、身を以て体感したリアルには程遠いものだ。百聞は一見にしかずという諺があるように、他人から伝聞した情報というのは実際に見聞きした出来事とは明らかに一線を画す。

 

 

 そもそもの話、フィクションとノンフィクション、この二つを原理的に切り離すことが可能なのか。現地に行って直接取材をして被害者の言葉を耳にすれば、フィクションはノンフィクションへと切り替わるのか。断じてそんなことはない。他人から見聞きした情報という点において、やはりそれはフィクションとしてしか成立し得ないのだ。テレビ放送やラジオ番組の取材班がやっていることを個人レベルで遂行してみせたというだけで、根底にある問題は何一つ解決していない。

 

 となると、何がフィクションで何がノンフィクションかという議論はなにやらとてつもなく無意味でナンセンスなものであるように思えてくる。現実に起きた出来事のほとんどを我々はノンフィクションではなくフィクションとして捉え、そして、消化している。もはやこの事実は否定しようがない。ならどうしろというのか。
 問題意識の話題にすり替えると腑に落ちるかもしれない。それはつまり「その出来事がどれくらい自分に関係あるのか」という距離や程度についての問題である。本作のモデルとなったボストンマラソン爆弾事件の例に準えれば、被害者の中に親戚はいたのか、自国民として関与すべきなのか、といった話に繋げることができる。言うまでもなく問題意識のレベルは個人の経験や性格に大きく依存するので、全員同一ということはあり得ない。

 

 事件の当事者にとっては、目の前で起きたそれは紛れもない真実である。一方で、直接的に事件に関与していない外野にとってそれは単なるフィクションに過ぎない。両者の意識レベルはスタートラインから既に大きく異なっている。

 にもかかわらず、我々は現実をフィクションとして消化している事実を忘れてしまいがちだ。例えば、あまりにも出来の良いノンフィクション作品を観ると特にその傾向は強くなる。外野は当事者とほぼ変わらないレベルで事態を認識していると錯覚してしまうのだ。当事者と外野、その両者の間には決定的な壁があるという事実を見落としまう。

 

 今回、何故こんな話をしたかというと、ノンフィクションを謳ったこのフィクション映画にちょっとした違和感を覚えたからだ。

 

映画評まとめサイトロッテン・トマト」によれば、映画評論家(少数ながら米国外の批評家も含む)の80%、一般観客の87%がポジティヴに評価している。かなり高い数字であり、特に米メディアの多くが好意的な映画評を載せていることが大きい。

実際に事件の起きたボストンで、同作はどう捉えられているのか? 地元で最大の部数を誇るボストン・グローブ紙は、意外にもネガティヴな感想を述べている。

同紙は、「ウォールバーグ演じる主人公は、関係者数人の要素を合わせて構成された人物」などと例を挙げながら同作を「本物でない」と論じ、興行のために惨事を映画化するハリウッドの姿勢を疑問視している。当事者にしかわからない心情。“真実と演出”あるいは“写実と装飾”の間にある距離は、悲しい出来事を題材とする作品すべてにつきまとう問題でもある。

 

アメリカはどう見た?ボストンマラソン爆弾テロ事件“実話”の映画化『パトリオット・デイ』 | dmenu映画

 

 

 外野が思い浮かべる理想像と、当事者にしか理解し得ない感覚にちょっとしたズレが生じるというのはよくある話だ。ノンフィクション作品の宿命ともいえる問題ともいえるため、何を今更という感じも正直、拭えない。


 が、事の顛末を見届ける限り、ボストンマラソン爆弾テロ事件の発端が今回挙げた問題と全くの無関係であるとは到底思えないのだ。九・一一以降、外敵を作ることによって結束力を高めた米国が、今度は国内のテロリストを排除するため再び同じようなやり方で結束力を高めた。当事者間の意識レベルを協調させることによって、彼らはテロ事件をスピード解決に結びつけたのである。ところで、このサイクルは外敵の存在をよりハッキリと浮き上がらせてしまうだろう。町の平和を脅かすテロリストならまだしも、この外敵とやらが国家や思想となった場合、一体どう転がっていくのか。正直なところ、あまり想像したくない。

 

 たしかに政府関係者の態度は九・一一以前のそれとは明らかに変化している。ケビン・ベーコン扮するFBI特別捜査官が容疑者の顔写真を公開するか苦渋の選択を迫られるシーンはまさにその例に当てはまる。本作にはそういった政治的要素も含まれていて、その違いを見極めるのも一つの楽しみ方といえる。

 しかしそれでも、どこか旧体制から脱却できない息苦しさのようなものが本作に残っている。それをアメリカらしさだと割り切ることができれば、すんなりと受け入れられるのかもしれない。しかし、そうでなければ本作はある種のプロパガンダのようにみえてしまう。
 ひとつ言えるのは、「パトリオットデイ」というタイトルは本作に相応しいということだ。良くも悪くもそれだけは間違いないだろう。