暫定語意

虚構、創作あるいはフィクションに纏わる話

小説『何者』 自己分析のその先で躓く就活生たち

 

 朝井リョウの原作と、三浦大輔の映画を観ての感想。

 小説が苦手という人や、感受性が高すぎて精神的ダメージを受けやすい人は映画から観た方がいいかもしれない。ジャンルの構造上仕方ないところはあるが、基本的には原作のほうが心理描写が読みやすいのでそっちをお薦めたい。

 余談だが、作者は新入社員として働きながら本作を書き上げたらしい。最年少直木賞作家のバイタリティー恐るべし。

 

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 就職活動を開始にあたり、ほとんどの就活生たちはまず自己分析を行う。自己分析を一言で言い表すなら「自分を知る」作業だ。過去の自分を振り返り、「自分はこれまで何をしてきたのか」「自分は何に興味があるのか」「自分は一体何がしたいのか」そして「自分とは何者か」といったことを突き詰めて考えいく。この工程を経ることによって、就活生は目指すべき業界を絞り込み、企業に売り出すアピールポイントを己のうちに見出すのである。自己分析は就職活動の原点であると同時に、それを勝ち抜く上での武器でもある。
 自己分析に取り組むと、次第に苦痛を伴うようになる。自己を見つめ直すということは、身の程を知るということでもある。社会経験の無い就活生は、自らの無能さを嫌というほど自覚させられるのである。
 自らの無能さを認めた上で何かしら行動に移すことができれば、状況は好転するかもしれない。しかしその現実を直視できず足掻くことを一蹴してしまったら、その先に待っているのは無慈悲な現実だ。競争を諦めた敗者を待ってはくれるほど競争社会は甘くない。評価されることから逃げれば、その存在は社会から無視されていくことになる。就職活動に当てはめるならそれは「無い内定」ということになる。


 「何者」は、自己分析のその先で躓いた就活生たちの物語だ。主人公の二宮拓人の得意技は分析であり、彼は自分が何者であるのか把握している。しかし、あまりに格好悪いその姿を拓人は認めることができない。自分は自分でしかないという現実を容認できずにいる。
 拓人は自分ではない「何者」かになるために周囲の人間を否定し始める。彼が作成した「何者」というTwitter裏アカウントは、その夢を実現するためのツールに他ならない。舞台上で役者が拍手喝采を浴びるように、彼は自分ではない「何者」としての成功を望んでいる。不格好で欠点だらけの自分ではなく、完璧で何一つ曇りのない「何者」でなければ成功はあり得ない、そう信じて疑わないのだろう。
 しかし残念なことに、自分というのはどこまでいっても自分でしかない。舞台から下りた彼は、もはや他人になりきる役者ですらないのだ。自分以外の何者かになるなることなどできるはずがない。

 だから本作は、拓人が現実を受け入れるまでの物語でもある。

 

 

・ギンジと隆良

 「意識高い系」というインターネットスラングがある。はてなキーワードで調べてみると

自分の経歴や人脈を過剰演出し、見た目はいいが、実際の経歴や活動は大したことない人たちを指す。

 と出てくる。

 ところで、「意識高い系」とは別に「意識高い人」というのも存在する。意識高い系と区別して使用されている状況から察するに、おそらく「言動と結果が一致している人」を「意識高い人」と呼ぶのだろう。
 拓人は二人を「意識高い系」として同類に考えていた。一方でサワ先輩はギンジを「意識高い人」、隆良を「意識高い系」にそれぞれ区分した。どちらの言っていることが正しいのか、本作に目を通しているのであれば、それは説明するまでもないだろう。


 一つ補足することがあるとしたら、人を「意識高い系」や「意識高い人」という言葉で括ろうとするその試み自体、何か間違っているのかもしれないということだ。
 たった百四十文字の言葉で個人を言い表せないのと同様に、たった一つのキーワードで個人の特徴を言い当てたつもりになってよいものなのか。こういった言葉は、あくまでその人の断片を語る上で必要な記号であるだけで、その人の全容を語る言葉であってはならない気がする。

 

・ギンジと拓人

 批判を素直に受け入れつつも、それでも他者に点数をつけ続けてもらう道を選らんだギンジ。ツイッター2ちゃんねるに張り付き周囲の視線ばかり気に留め、自分が何者であるかに固執し続けた拓人。両者の決定的な差は、どれだけ他者の目を気にしたかという点だろう。

 ギンジは他者の目を気にしない。なぜなら、彼には途方もない夢があり、それを実現するためには世間体など気にしている場合ではないのだ。
 拓人は必要以上に他人の評価を求める。彼は己の内で明確な評価基準をもたない。自分は何をしたいか、自分は何を達成したいのか、それがわからないために他者に判断を委ねようとする。

想像力が足りない人ほど、他人に想像力を求める。 他の人間とは違う自分を、誰かに想像してほしくてたまらないのだ。

 本編からの引用。見事なブーメランである。
 拓人が得意とする分析も、たしかに刃物のように鋭利ではあるがしかしそれだけである。道具というのは目的があって初めて機能する。明確な利用目的(判断基準)をもたない拓人は、単に刃物を振り回すことしかできない。ただひたすらに正しいだけの正論がいかに人を傷付けるのかは言うまでもなく、彼にとって最大の武器であったはずのそれは、物語終盤、最悪の形で露見することになる。

 


・瑞月と理香

 基本的に拓人は、将来のビジョンをもてない者を想像力がない人間と決めつけていた。彼のTwitter裏アカウント「何者」は、そんな想像力のない人間を罵倒し嘲笑うものだった。
 しかし、相手がどれだけ考え抜いてその結論に至ったのか、そんなことが果たして本当に汲めるものなのか。愚かな選択だとわかった上で、それでも選択しなければならない過酷な状況に追い込まれていたことを、どうして察することができるのか。業界人でもあるまいにどうしてその業界の未来を予測できるのか。
 できるはずがない。そんなものは初めから想像しようがないのだ。どれだけ洞察力に優れていても、他者を完全に理解するほど人の脳は良く出来ていない。すべての可能性を網羅できるほど万能でもない。想像できることには限度があるし、それらを裏付ける手段も限られている。要するに、想像するだけ無駄なのだ。


 選考を終えた帰りの電車で、瑞月は拓人に家庭の事情を打ち明ける。夫の浮気が原因で、精神的に不安定である母親を彼女は支えなくてはならなかった。就職についてもできるだけ転勤が少なく安定した職を探し出す必要があった。
 瑞月が昇進のないエリア職の内々定を手にしたとき、拓人はそこに何の疑問も抱かなかった。彼女の家庭事情を知っていた彼は、目的に見合った企業に内々定を貰ったのだと納得する。一方で、事情を知らない理香は彼女が就職活動に妥協したのだと勝手にそう思い込んだ。検索履歴に残された「大日通信 エリア職 ブラック」の文字は何よりの証拠だった。
 ハッキリ言って理香の想像はズレている。相手の事情も知らず、ブラックかホワイトか、高給か安給か、たったそれだけ指標で人を判断するのがいかに無意味で見当外れかは指摘するまでもない。

 

 拓人はTwitter裏アカウントで理香を馬鹿にしていた。学生身分で名刺を差し出し、メールアドレスからTwitterアカウントを検索しフォローするその姿は、世間一般的にイタいものであり、そのイタい行為を自覚無しに行っている彼女は愚かだと見下していた。しかし拓人の想像はズレていた。理香は自らのイタさを自覚しており、それでもそのイタい自分を受け入れた上で、行動していたのだった。


 想像力には限界がある。人にはそれぞれ事情があり、相手にそれを一から十まで理解してもらうことは不可能だ。だからこそ他者の評価に惑わされてはいけない。こちらの事情を知らない相手の言葉など何の意味も無い。自ら掲げた目標というのは、自ら達成して、自分で評価するしかないのだ。それ以外に価値を見出すことなどできないはずだ。

 

・ギンジと桐島

 そもそも鳥丸ギンジとは何者か。彼に一番近いポジションは同作者のデビュー作「桐島、部活やめるってよ」(以下、桐島~)における桐島ではないだろうか。
 「桐島~」未読層に向けて捕捉すると、この桐島なる人物は高校生の理想を体現したような存在だ。容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能、異性問わず人気の高い桐島は、学園のヒーローといってもいいだろう。
 そんな彼はある日突然、学園から姿を消してしまう。ヒーロー不在の状況こそ「桐島~」の内容になるわけだが、今一度ここで確認しておきたいのは桐島というキャラクターの描かれ方についてだ。
 彼は他の登場人物たちと比べて明らかに異質な存在として描かれている。誰の意思に左右されることなく、誰に理由を告げるわけでもなく、彼は学園から立ち去る。その振る舞いを第三者の視点から見つめ直したとき、身勝手で自己中心的な人物として映るかもしれない。
 しかしそれができるからこそ、彼は他の登場人物たちと一線を画すのだ。
 これは高校生に限った話ではないが、周囲の目線に囚われることなく、自己判断のみを頼りに行動できる人間はそういるものではない。周囲を顧みず自らの判断で行動できる、それこそ桐島がヒーローたる所以なのである。

 同じことが今作のギンジにもいえる。プロの演劇家としての道を選んだ彼は、周囲から見れば「将来のことも考えず遊んでる馬鹿なヤツ」くらいにしか認知されていない。しかしその実態は大きく異なるものだ。ギンジは自らの夢を実現するため安定した生活を切り捨てる決断を下した。不格好ながら他人に非難されながらも、ひたすら夢に向かって邁進し続けるという過酷な道を選択したのである。周囲の目線に囚われず己の信じた道を歩む、という点でギンジは桐島に共通するところがある。

 

 もう一つ共有する点として登場回数の少なさが挙げられる。原作でギンジが実際に登場したのは過去の回想、その一回のみである。桐島に至っては最後の最後まで登場することはない。二人は「ゴドーを待ちながら」の「ゴドー」でもあるのだ。
 登場回数が少ないのにも当然、理由がある。彼らは「大手企業に就職する」「クラスの人気者になる」といった世間体を気にする感じのタイプではない。もしそうであれば桐島は失踪することはなかったし、ギンジも大人しく就活を始めただろう。二人の興味関心は世俗とはかけ離れていることが窺える。他者とは異なる視点・価値観をもつ彼らは、他の登場人物たちと同じフィールドに立つことができない。それもそのはず、「何者」にしろ「桐島~」にしろ、これらは凡夫の凡夫による凡夫のための物語であり、非凡である彼らが中心として活躍していいはずはないのだ。ゆえに、彼らは表舞台に姿を現すことはなく、その存在のみ登場人物たちの口から仄めかされるのである。