暫定語意

虚構、創作あるいはフィクションに纏わる話

映画「ブレードランナー2049」 虚構に生きて死んでいく

監督 ドゥニ・ビルヌーブ
出演 ライアン・ゴズリングハリソン・フォード 他

 

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 一般的に、前作の知名度が高ければ高いほどその続編は作りにくいと言われている。ファンの思い入れが強い作品というのはそれほどに扱い辛いものだ。しかし逆に、その思い入れを利用してやれば、ある一定レベル以上の佳作を生み出すことはできるのかもしれない。あるいは、続編として生まれてしまった悲劇を観客に共感してもらえれば、たとえ前作の壁は越えられずとも、その続編は「良い続編」として後々まで語られるかもしれない。「ブレードランナー」の続編「ブレードランナー2049」はまさにそんな作品の典型だった。「偽物の子供」としての葛藤、そのテーマはこの映画自体が抱えている呪いなのだから、前作のファンであるならばその過程と結末を見捨ててはおけないはずだ。

 

 

ピノキオとブレードランナー2049

 

ピノキオと同じように、今回のレプリカントはすごく自由な意志をもって自分の運命についても受け入れようとするからね。それはまさに美しい人間になるのと同等のことだとも思うよ。

引用:『ブレードランナー 2049』監督明かす"ピノキオ"というキーワード(マイナビニュース) - goo ニュース 

 

 

 ヴィルヌーヴ本人は、今作の主人公Kはピノキオであると公言している。たしかに偽物の子供、というモチーフは今作の主人公と重なる部分が多い。


 ピノキオといえば1940年に公開されたディズニー映画が有名だ。ある日、人形職人のゼペットは「子供が欲しい」と星に願いを託す。妖精は老人の願いを叶え、彼の制作したあやつり人形の一つに命を吹き込む。人ではない人形としてこの世に生を享受したピノキオは「子供になりたい」「人間になりたい」この二つの願望を胸に抱えて旅に出る。様々な苦難を乗り越えたピノキオは、物語終盤、鯨に呑みこまれたゼペットおじさんを助けるため駆けつける。その勇気を振り絞った行動が妖精に評価され、ピノキオは木偶の人形から本物の人間の子供へと見事に転身を遂げるのだった。ディズニー映画の「ピノキオ」は夢ある冒険物語として語られ、今も子供向けの情操教育に用いられている。


 「ピノキオ」が人々に夢を与える話ならば、今作「ブレードランナー2049」は夢を奪う話だ。レプリカント狩りのプロフェッショナル「ブレードランナー」として活躍するK。彼自身もまた人の手によって生み出されたアンドロイド「レプリカント」である。創造主である人間の命令に従い、Kは同類殺しの任務を遂行する。ある事件をきっかけに、彼は自らの生に疑念を抱くようになる。人為的に捏造された過去の記憶が実はホンモノかもしれない。道具として設計された創造物ではなく、愛によって産み落とされた人なのかもしれない。調査を進めるうちに曖昧な疑念は確信へと移り変わり、Kは自らの生に希望を抱くようになる。そこで「子供になりたい」「人間になりたい」というモチベーションが生まれたのは間違いないだろう。創造主より与えられた「ブレードランナー」としての職務を放棄し、彼は生まれて初めて自らの意志で行動を起こすようになる。

 

虚構に生きるという決断

 


 Kは前作の主人公デッカードとの接触に成功するものの、その後、ウォレス社の罠に嵌められてしまう。フレイザ率いるレジスタンス軍に救出され辛うじて一命を取り留めるK。しかしそこで彼を待ち受けていたのは死よりも惨い現実だった。


 信じがたいことに、デッカードの子供は女児だった。そして、Kの記憶はその子供の記憶のコピーに過ぎないと告げられるのだった。Kは今まで偽の記憶に誘導され、あたかもホンモノのように振る舞っていたのである。


 自らが特別な存在ではないことを知るK。希望など何一つないと悟りながら、しかしそれでも彼はデッカードの救出に向かうのである。「子供になりたい」「人間になりたい」そんな希望を胸に抱き、ゼペット救出のため鯨の口の中に飛び込んだピノキオ。夢は永遠に叶わないことを知りながら、それでも酸性雨の海に沈みかけた飛行船中からデッカードを救い出したK。一切の見返りを求めないKの行動は利他主義のようにも思えるが、それとも少し違うようにも感じられる。結果的に彼はデッカードを助けたが、それはデッカード本人のためではない。K自身の信仰のためである。

 

 おそらくKは騙されて生きる道を選んだのだろう。信仰の対象が虚構だったとしても、それでも彼は信じるしかなかったのだ。ホログラムに投影された虚構の恋人でも、元から存在すらしない偽りの希望であっても縋って生きるしかなかったのだろう。

 

レプリカントの在り方を巡って

 


 デッカード奪還のためKはウォレス社のレプリカント「ラブ」を破壊するが、このときの殺害方法は溺殺である。以前、バイオショック・インフィニットの記事でも似たようなことを書いた気がするが、キリスト教において洗礼は生まれ変わりの意味をもつ。今回の場合、Kの手によって「ラブ」は水底に沈められたのでレプリカントとして「ラブ」の罪は罰せられ、反対にKは赦され生き残ったと考えるのが妥当なところだろう。このへんの解釈の答え合わせは、続編が出たときにでも明かされるだろう。

 

雨と生、雪と死

 


 デッカード救出に成功したKだったが、ウォレス社のレプリカントとの戦闘の末に致命傷を負う。デッカードを娘の元に送り届けると、別れ際にKは木馬のおもちゃを返還する。この木馬はKが自らの記憶がホンモノであると信じるに至ったきっかけ、すなわちKの生存意義そのものだったはずだ。木馬を返した理由については一考の余地があるだろう。ピノキオの物語に準えて彼の良心がそうさせたのか、それとも、彼自らが偽物の子供であることに負い目を感じていたからなのか。個人的には木馬のおもちゃを握りしめたまま死んでいく展開も悪くないと考えたが、前作のロイ・バッティ死亡シーンを振り返ってみると、たしかにこうするしかなかったとも思えてくる。


 ロイ・バッティは雨の中死を遂げたが、今作のKは雪に埋もれて命を墜とした。ロイ・バッティはデッカードに意志を遺すことで、レプリカントの運命から脱却した。した。一方で、Kは最期に木馬を返還することによって何も遺すことなく、あくまでレプリカントとして死を選択した。新たな命の誕生を予感させる雨と、冷たく絶対的死を連想させる雪。このあたりの描写の差異は、ブレードランナー2049は景色の映画であることを改めて実感させてくれる素晴らしいシーンだろう。全体的に静的な絵作りが多い今作は、哀愁漂うKの心の風景を描くことに固執しているのかもしれない。

 

 

 

 参考文献

tomomachi.stores.jp

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