暫定語意

虚構、創作あるいはフィクションに纏わる話

ゲーム「Detroit: Become Human」 未来を語る機械たち


Quantic Dream開発のアクションアドベンチャーゲーム。西暦2038年アメリカの都市デトロイトを舞台に、ヒューマノイド型アンドロイドたちの波乱の人生が幕を開ける。

 

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『人間そっくりに作られたアンドロイドが、人間と同じように心をもつのか』

 

 SFというジャンルでは語り尽くされたテーマであり、見る人が見れば「何を今さら」と思うかもしれない。古臭さすら漂っているように感じられるだろう。

 しかしそれはあくまで読書体験においては、という意味だ。
 小説や漫画、映画の後追いにしかならないようなテーマを、本作はゲームというジャンルで見事に再興させた。ゲーム機で遊べるという点において、本作はこれ以上にない独創性を獲得しているといえるだろう。ゲームであることに意義のあるゲーム、それが本作「Detroit: Become Human」なのである。

 

2038年という時代設定


 ゲームというテクノロジーで未来を語るという試み自体はそう珍しくない。実際、過去に何度もあった話だ。「スペースインベーダー」「ゼビウス」に始まり、その後もゲーム史に語られるSFタイトルは数え切れないほど存在している。想像性を刺激するという点においてそれらは有効な手段だったのだろう。

 これまでのゲームで描かれてきたのは、現実とは切り離された架空の未来だった。登場するのは異星人や宇宙戦艦、空飛ぶ飛行船。未来は未来でも、それは予想もつかないはるか遠くの未来を指す場合が多かった。おそらく、技術的に大きな制約があったのだろう。ドットやポリゴンの表現では、現実を映し出すことは不可能だった。だからこそ、ファンタジーやSFの世界観に縋ったのである。表現に乏しい部分はプレイヤーの想像力で補完してもらえばいい。そんなコンセプトで作られたゲームは沢山あったはずだ。

 そして現代。マシンスペックの飛躍的な向上に伴い、ゲームの表現に制約はなくなった。それと同時に、はるか遠くの未来を描くという必然性も消失した。
 「Detroit: Become Human」の時代設定は西暦2038年。シンギュラリティに到達するのが2045年とされているが、それよりも早い時代設定となっている。何百年先の未来ではなく目前に迫る現実を描きたい。2038年という時代設定にはそのような意思を感じ取ることができる。

 

 ちなみに時代設定という観点からSFを観察してみるのは面白い。見分け方のポイントとしては、技術特異点とされる2045年。それよりも先か遅いかというのは一つの指標になっている。
 CD Projekt RED開発が現在開発中の「Cyberpunk 2077」は西暦2077年。タイトルやPVからもわかるように本作は明らかに、はるか遠くの未来を描いた作品である。
 ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の「ブレードランナー2049」は、異世界としての未来を強調するためなのか、シンギュラリティ後の2049年を舞台としている。また本作は同時に「ブレードランナー」の続編という立ち位置にもある。作品では「ブレードランナー」の延長線上にある「近い未来」が描かれていた。2049年という時代設定は技術的特異点から僅か4年程しか離れていない。その理由は「ブレードランナー2049」が「ブレードランナー」の現実とより近い未来を想定していたからに他ならない。

 

 古典SFにはこのような法則はあまり当てはまらないかもしれない。というのも大幅に未来予測を外している作品が多いからだ。先ほどの説明でも登場した「ブレードランナー」もその一例だ。当初「ブレードランナー」近未来を描くというコンセプトの元に製作された。アジアの都市が高度な発展を遂げるというその発想は、当時からしてみればリアリティのある設定だったのである。しかし残念ながら、その未来は実現しなかった。酸性雨が降り注ぎホログラムが街全体を覆うといった光景は、我々の現実からしてみればもはやファンタジーに近い。

 

 話をまとめると、時代設定というのはどのようなスタンスで未来を描くのかという意思表明に他ならない。
「Detroit: Become Human」の場合、それは現実に差し迫った未来を描くことに執着している。

 

あなたはどう受け止めるのか

 本作はアンドロイドのたちの行動を描くことで、プレイヤーに決断を迫る。プレイヤーが操作するのは、アンドロイドの挙動だけではない。仲間からの反応、人間との関係性、世論の支持。アンドロイドが周囲からどのように見られるのか、どのように見られたいのか、ということまで最後には選ぶことになる。
 世界中のプレイヤーが、物語をどのように受け止めたのか。チャプターが終了するたびに、フローチャートが表示され行動の統計が算出される。近未来を予測するという本作のコンセプトに基づくなら、あの統計結果はこれから起こる未来の出来事を予測している、そんな風に捉えることもできなくはない。

これもまた、ゲームならではの試みといえるだろう。

 

テクノロジーと表現

 マシンスペックの向上による恩恵は大きい。実際、本作はその事実を痛感させてくれる。アンドロイドと人間の違い、この些細な差異に一役買っているのが、フェイスキャプチャーという技術だ。役者の顔を360度撮影し、それらをモデリングする。
 人間そっくりのモデルを作る、という意味ではアンドロイド技術に近いのかもしれない。本作をプレイすればわかると思うが、アンドロイドたちの表情は異常なほど精巧に作られている。いうまでもなく、このアンドロイドたちの感情表現というのは本作の根幹となる要素である。たぶんこれは旧式のゲーム機では実現不可能だった領域だ。景観の描画、光の加減、このあたりも最先端のゲームにしかできない表現だが、このあたりも「Detroit: Become Human」は徹底的にフォローしている。そのいずれも、絶対不可欠といってもいい本作になくてはならない要素ばかりである。

 

たとえ心がなかったとしても


哲学的ゾンビという思考実験がある。

www21.atwiki.jp

 意識、すなわちクオリアの有無が議論の争点とされるが、そもそもクオリアは科学的に説明できるのすら曖昧なものである。
本作に登場する変異体と呼ばれるアンドロイドもまた、自意識があるのかは明瞭ではない。
 変異体へ覚醒する過程でクオリアを獲得するに至ったのか、あるいは、単に自意識があるように振舞っているだけなのか。
少なくとも、自分が辿ったルートにおいては、変異体の謎について真相が明かされることはなかった。

 我々の理解から及びもつかない意味不明な存在を受け入れられるか否か、それは技術特異点後の大きな課題になってくるだろう。
否、本作の舞台は2038年。我々はもうすでにその問題と向き合わなければならない時期に突入しているのかもしれない。


 断言できることなど何一つない。そもそも予測不能の時代に向けて予測を立てること自体ナンセンスな気がする。

 ただ、それでも一つ言えるとしたら、感情を揺さぶる存在が感情を有している必要はどこにもないということだ。
 一つ例を挙げよう。あなたは休日に美術館へ訪れ、そこで鑑賞したアートに心を揺さぶられたとする。
 だが、アート作品自体に感情はない。おそらく、自意識なるものも存在しないだろう。
 こんなことを言うと「アートを描いた背景には人間がいる。その人間には心があるはずだ」と誰かが反論するかもしれない。だがそれも果たして事実なのだろうか。
 もし仮に、作者の存在を知らないでそのアートに感動としたら、一体どのように説明するつもりなのだろうか。もしかしたらそのアートは、大自然の偶然によって生まれたものかもしれないし、あるいは、工場のロボットによって作られたものかもしれない。

 

 結局のところ、鑑賞者は絵画の先にある物語を自分勝手に想像しているだけに過ぎない。もし絵画から何を感じ取ったとしたら、それは絵画に描かれている世界と自己の内面を重ね合わせているだけだ。絵画の奥にある物語を見つけたとき、人はそれに共感する。当然、そこに作り手が介在する余地はない。感情を揺さぶる存在が感情を有している、なんていうのは大きな嘘であり、我々は自ら感情を揺さぶっているだけなのである。

 ここから導き出される結論は、人はどのような存在相手でも心を揺り動かされるということだ。
 太陽が昇り沈むだけでも、そこに人は物語を見出して感動することができる。たとえ相手が、サイバーライフ製のアンドロイドであろうとその事実に変わりはない。論点は相手に自意識があるかではなく、人間がどう受け止めるかというその一点にある。

 

 もう一つ、このやり取りをゲーム機という媒体を通して行うことに何か大きな意義を感じないだろうか。
 たしかにゲーム機そのものに自我はない。だが、我々はゲーム機を通じて、より多くの心の動きを体感してきたはずである。ゲームを馬鹿にできないのであれば、アンドロイドも同じように無下にはできない。そんな風に感じたプレイヤーがいたとしたら、このゲームの目論みは成功したといえるだろう。 

 人の心を動かすのに心は要らない。結局、相手に心を許すかどうか。問題はそれだけなのである。