意味があれば気にしないですむ

虚構、創作あるいはフィクションに纏わる話

映画「散歩する侵略者」 思考の停滞と崩れ落ちる日常

 

監督 黒沢清

出演者 長澤まさみ 松田龍平 長谷川博己 他

 

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 これだけゾワゾワする映画は久しぶりだった。特に宇宙人の描き方については素晴らしいの一言に尽きる。よくもまあ、あれだけ不快なキャラクターに仕上げたものだ。宇宙人たちのキャラ造形もそうだが、あの日常の枠からはみ出さない絶妙な終末観と、日常が侵食されていく不快感はそう簡単に醸し出せるようなものではない。その意味で、本作は「SF」というよりもむしろ「ホラー」に分類できるのかもしれない。

 

 日常が日常でなくなるその日まで

 

 極度なまでの冷酷さ、感情の欠落、肥大した自尊心、これらはすべて精神病質者、すなわちサイコパスの特徴によく当てはまる。単なる精神病患者で済めばまだ可愛いものだが、自称宇宙人たちの存在は地球人たちにとって迷惑極まりなく、概念とやらを学ぶ過程で人々の精神を犯す上、おまけにその過剰なまでの戦闘能力を有する。銃を所持する人間をまるで赤子のようにあしらう怪物たちは、人殺しに対して一切の躊躇いがないため非常に質が悪い。

 

 社会に馴染めないサイコパスは善良な市民にとって排除すべき敵とみなされる。今作の宇宙人たちもその例外ではなかった。日常を脅かす宇宙人たちに登場人物のみならず、映画を観ている観客も、極度の不快感を抱いたはずだ。

 

 しかしなぜ不快感を覚えるのだろうか、その元凶を辿ったとき行き着く先は、日常崩壊の危機にあるように感じる。世の中に不満を抱え込んでいる人間でもない限り、小市民である我々は今ある平和な日常を維持しようと考える。そして当たり前のものが破壊されたとき、人はそこに極度のストレスを感じるよう設計されている。

 

 物語の序盤、長澤まさみ演じる加瀬鳴海が常に怒っていた原因の一つは、夫の加瀬信治の性格がまるで別人のようになってしまったからだった。環境の変化に彼女は激しい怒りを覚えたのだろう。当たり前の光景が破壊されたとき、人はそこにストレスを抱く。それはときに理不尽や不平等という言葉で語られるだろう。いずれにせよ、指し示す概念はすべて同じだ。

 

 嫌なことを出来る限りの考えないようにする、そんなスタイルを確立している人は少なくない。これはストレスを溜め込まないための一種の処世術のようなものだ。想像を放棄したそのやり口はどちらかといえば、現実逃避に近いといえるだろう。そして思考の怠慢がもたらす結果というのは常に悲劇的だ。現に本作の筋書きも大方そのようになっている。


 いつの日か、人は日常の崩壊などあり得ないと思考を切り替えるようになった。これは経験則的な要因が大きいのかもしれない。ここ何十年も戦争は起きていないからきっと大丈夫だ。昨日もそうだったし明日も似たような感じで一日終わるだろう。そんな具合に、さりげなく今日という日が過ぎ去って行く。

 

 しかし、これは少し考えてみればわかるものだが、そのような考え方は実は全く論理的ではない上に何の根拠もない。宇宙全体を観測するラプラスの魔を作成しても、あるいはそうでなくても、今日と同じように明日が来るとは実のところ誰にも保証できないのだ。

 

 長谷川博巳演じるジャーナリストの桜井は、侵略の事実を受け入れ、それらを大衆に知らしめようとする。昼間の広場で宇宙人の侵略を公言するその姿は端からみれば、いや見なくとも、関わったら面倒起こす系の危ない思想の持ち主である。

 

 事の一部始終を見届けている観客は、桜井の言葉が全て真実であると知っている。だからこそ、このシーンはこの上なくもどかしい。実際、街中で似たような輩に出会ったら間違いなく無視するだろう。あれは注目を浴びたいだけの狂人の戯れ言だ。そう一蹴してその場から立ち去るに違いない。その予想は十中八九正しい。そのはずだ。

 

 しかしもしその判断が万が一間違っていたとしたら、私たちはすぐ目の前まで迫っている日常の崩壊という危機を、易々と見過ごす結果になるだろう。本作で起きた悲劇とはまさにそれなのだ。思考の怠慢。変化の拒絶。その結果がもたらす恐怖は明らかに人々の生活の延長線上にあるものだった。だからというべきなのだろうか、「フィクションだから」の一言では済ましてはいけない恐ろしさがそこには含まれている。

 

 

 終わらない侵略を前にして


 本作は、世界の終焉を悲劇として捉えながらも、日常の終わりに対してはそう否定的ではないようにみえる。要するに「変化」に関しては全体的に寛容な印象を受ける。

 

 例えば、最終的に宇宙人と一体化してしまった加瀬信治を妻の鳴海は受け入れている。宇宙人に身体を乗っ取られてしまった時点で信治は別人ともいえる存在だったはずだ。物語開始以前のいざこざを考慮すれば、夫婦の縁を切ってしまっても問題はなかったのに、鳴海は信治を最後まで見捨てることはしなかった。鳴海は、信治に訪れた変化を見届け、そして愛する道を選んだ。


 また、もう一人の主人公である桜井についても宇宙への接し方が序盤と終盤では大きく異なっている。特に後半は、宇宙人との友情を感じさせるシーンも少なくない。ジャーナリストとして同業にも周囲の人間にも理解を得られなかった彼が、最終的に人外と通じ合うというのはなんとも皮肉な話だが、それ以上に切ない展開でもある。

 

 変化というのはそれ自体が悪いものではない。変化はときに良い影響を生み出し、また悪い結果をもたらす。本作においては、宇宙人と人間とのそれぞれの関係性がそれに該当するのだろう。そしてこれは宇宙人に概念を抽出された人々にも同じことがいえる。

 

 「家族」という概念を抜かれた鳴海の妹は、まるで他人のような冷たい人間になってしまった。一方で「所有」という概念を抜かれたニートや「他人」を抜かれた刑事はまるで憑き物でも落ちたかのように前向きな変化を遂げていた。概念喪失に伴う感情の変化(涙の描写)はあっても、その結末がすべて悲劇に終わるとは限らない。さらにいえばラストでは治療の可能性も仄めかされている。結局は、当人と周囲の人間の付き合い方次第なのだろう。

 

 

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