暫定語意

虚構、創作あるいはフィクションに纏わる話

ゲーム『バイオショック インフィニット』 解説と考察

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 主人公ブッカー・デュイットは元軍人である。十六歳のとき、彼は第七騎兵隊員としてウンデット・ニーの虐殺に参加した。原住民のインディアンの顔を剥ぎ、その野営地に火を放つうちに、ブッカーは大量殺人に対して快楽を見出していく己の姿を自覚する。内に秘めた残虐性に畏怖した彼は、その罪の意識から逃れるため洗礼によって第二の人生を歩むことを決意する。洗礼名ザッカリー・カムストック。洗礼によって生まれ変わったはずの男は、しかしながら、歴史がかつてそうであったように同じ過ちを繰り返すのだった。

 


 主人公ブッカー・デュイットは元軍人である。十六歳のとき、彼は第七騎兵隊員としてウンデット・ニーの虐殺に参加した。原住民インディアンの顔を剥ぎ、野営地に火を放つうちに、ブッカーは大量殺人に対して快楽を見出していく己の姿を自覚する。内に秘めた残虐性に畏怖した彼はその罪の意識から逃れるため、洗礼によって第二の人生を歩むことを決意する、そのはずだった。ブッカーは洗礼を拒んだ。ごく平凡な人生を送るはずだった彼は妻と死別し、借金を返済するため娘を売り払った。もはや償いきれないほどの罪を背負ったその男は、かつて歴史がそうであったように同じ過ちを繰り返すのだった。

 

 人は過ちを繰り返すものだ。それは歴史が証明している。そして、本作「バイオショックインフィニット」は無限に繰り返される人の過ち、すなわち罪からの脱却を試みる物語だ。そこにはアメリカが自国を開拓するために歩んできた歴史と、アメリカ合衆国に普及するキリスト教、さらに過去作「バイオショック」の内容が密接に関わってくる。


洗礼と溺死

「洗礼」を受けるということは、このキリストの死に自分が結ばれ、罪の自分に「死ぬ」ことなのです。そしてさらに、「洗礼」は罪の自分に死んだわたしが復活のキリストに結び合わされ、新しいいのち(神との関係の中にあるわたし、神によって活かされていくわたし)に生きることなのです。洗礼は、つまり十字架と復活の主イエス・キリストに結ばれることなのです。
http://www.yumichohongo.com/senrei/

 

 物語終盤、「ザッカリー・カムストック」は洗礼によって名を変えた「ブッカー・デュイット」であることが判明する。さらに「カムストック誕生」の要因は「洗礼の成功」だった。カムストックが生存するすべての可能性を潰すためには、洗礼の失敗、すなわち「儀式中の溺死」が必須条件である。(このとき、「洗礼の中断」は「洗礼の失敗」には含まれない。「洗礼の中断」を実行したところで「本編のブッカー・デュイット」が誕生するだけで 「ザッカリー・カムストック」の排除には繋がらない)


 儀式的な意味での死ではなく、生物的な意味での死によって「救済」されるこのオチを皮肉が効いていると捉えるか、あるいは、宗教的価値観(キリスト教ではその死後に神の恩恵を受けることができる)を上手く再現した捉えるか、解釈が分かれるところだろう。

 

 さて、バイオショックシリーズにおいて、水中というキーワードは本来とは少し違った意味合いをもつ。海底に沈む都市ラプチャーはお馴染みバイオショック1・2の舞台だ。その理念は利他主義を徹底的に排除し自己の幸福を追求するものだった。高度な科学文明を築き上げながらもラプチャーは滅亡する。海底都市ラプチャーの在り方は、人の探究心によって積み上げられ、神の怒りによって崩されたバベルの塔を連想させる。


 ラプチャーの理念はキリスト教とは相反するものだ。その意味で、ラプチャーは人類の罪を体現した場所といっても過言ではない。一方で「バイオショックインフィニット」の舞台は空中都市コロンビアである。その倫理観は、キリスト教的倫理観を礎とした米国例外主義的思想の上に成り立っている。
 水と空の対比、洗礼の儀式と溺死、ラプチャーとコロンビアの関係性。それらを比較することで物語の見方も大きく変わってくるだろう。

 

歴史と神話

 主人公ブッカーは銃火器とビガー(超能力)を駆使して敵を撃退する。CERO:Dということもあってその戦闘表現はグロテスクの一言に尽きる。本編ではスカイフックというオリジナルの近接戦闘武器が登場するが、名状しがたいその造形はもはや拷問器具である。

 

 「バイオショック インフィニット」は、プレイヤーに暴力行為を強要する。これは主人公が過去に経験したウンデット・ニーの虐殺の再現に他ならない。

 

混乱が始まってすぐ、乱射されるカービン銃の音は耳を聾するばかりになり、硝煙がいっぱいにたちこめた。凍った地面に手足をのばし、瀕死のみを横たえていた人びとの中に、ビッグ・フットがいた。やがて、つかの間の銃声がやんだが、何人かのインディアンと兵隊はナイフや棍棒やピストルを手にして渡りあっていた。武器を取り返した数人のインディアンはすぐにその場を逃げ出したが、たちまち丘の上に据えつけられた大きなホッチキス銃が彼らに向かって火を吐き、ほとんど一秒に一発の割合でとび出すその銃弾は、インディアンの野営地を掃射し、飛散する弾丸の破片でティピーをずたずたにし、男や女や子どもを殺した。

・・・<ディー・ブラウン/鈴木主税訳『わが魂を聖地に埋めよ』下 1970 草思社 p.244>
http://www.y-history.net/appendix/wh1203-072_1.html

 

 「バイオショック インフィニット」は主人公ブッカーの贖罪の物語だ。それと同時にアメリカの歴史の再現でもある。ブッカーの抱える罪はアメリカが歩んできた歴史と同一のものを指している。


 歴史とはなにか。それは過ちの繰り返しである。

 

 ウンデット・ニーの虐殺はその一例に過ぎない。カムストックは義和団事件の制圧、その批難を受けてアメリカ合衆国から独立を果たした。義和団事件で彼が実行したのは扶清滅洋を掲げる義和団の殲滅だった。また、カムストックを倒すというブッカーの目的は、平和を愛する空中都市コロンビア市民の立場からすれば単なる侵略行為だ。カムストックに洗脳されたエリザベスは、ノアの箱舟を再現するためニューヨークを炎の海に沈める。

 

 「バイオショック インフィニット」は登場人物たちが抱える問題を、国家規模の問題へと巧妙にすり替えていく。借金の利息のようにその罪は加速度的に膨れあがっていく。そして、国家規模の過ちは量子力学との組み合わせにより、ほぼ「無限」に増大する。
 バイオショック インフィニット」のテーマは贖罪だ。返済不能の借金は帳消しする、それがこの物語の目的だ。しかし、目的を遂げるその行為が歴史の繰り返しであってはならない。罪を罪で洗い流す、その繰り返しが「バイオショック インフィニット」で語られた歴史の正体だった。だからこそ、歴史の再現は神話の再現に修正されるのである。人の手に余るその所業は、神話的アプローチで解決する他に道はない。かつてキリストは十字架で人類の罪を償ったという。その再現と言うべきなのか、主人公ブッカーはその死によって未来・過去に渡るすべての過ちを清算する。

 


 無限大の記号の由来は、自分の尾に噛みつくヘビだという説がある。始まりと終わりがないならば、すべては繰り返しに過ぎないのかもしれない。歴史だけではなく神話までも繰り返しの枠に収めてしまう本作「バイオショック インフィニット」は、まさに「インフィニット」を冠するに相応しい物語といえるだろう。