暫定語意

虚構、創作あるいはフィクションに纏わる話

映画「ゴッホ 最後の手紙」 狂気と優しさの筆跡

監督 ドロタ・コビエラ、ヒュー・ウェルチマン 
出演 ダグラス・ブース、ジェローム・フリン 他

 

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 芸術家というのはよく奇人・変人を指し示す言葉として用いられる。万能人とまで呼ばれたレオナルド・ダ・ビンチや、パフォーマンスとして奇人を演じたサルバトール・ダリはその例に漏れないだろう。常識に囚われず空想の世界に浸り自由気ままに生きる、それが世間一般の人々が抱く芸術家のイメージだ。


 芸術家は人々の理解の外にあるものを生み出そうとする。想像力を限界まで働かせ、誰もが予想もしてなかった世界を構築する。無論、それは芸術の目指す一つの目標地点だ。彼らの興味が世間一般のものとは多少ズレていたとしても、それは当然だといえる。職業柄仕方のないことなのかもしれない。

 

 しかしだからといって、作家本人が狂人である必然性は皆無だ。奇想天外な作品を生み出す芸術家が、極度に精神を病んでいたり、コミュニケーションが苦手で世間に馴染めなかったり、奇人エピソードをいくつも抱えていたり、あるいは、型破りな生き方を好んでいなければならない道理は何一つない。彼らはタレントでもなければアイドルでもない。注目すべきは人柄ではなく作品のほうだ。大半の芸術家たちは、自らの人生や生き様ではなく、自らの作品を媒介にして我々に何か訴えかけようとしている。

 

 「芸術家には反骨精神剥き出しの変態であって欲しい」そう願うのは常に鑑賞者側の都合でしかない。もはや願望にも等しいそのイメージは、指摘するまでもなく画家の持つ本来の性質とは大きく離れている。作品に対するイメージをそっくりそのまま作家の人間性に当てはめてしまう鑑賞者というのは、実はなかなかに罪深い生き物だったりする。

 

 鑑賞者の願望とは相反する形で、作家という生き物は常に自らの理解者を求めている。しかし彼らの芸術に対する思い入れは万人に共感されにくいものである。結果、作家は孤立する。理解者を得られぬまま創作活動に励むのである。

 

 周囲から一切の賛同を得られない、そんな状況が長引くと、喩えどのような自信家であっても自尊心に傷がつく。場合によっては、精神に異常をきたすこともあるだろう。これは芸術家が世間一般とかけ離れた感性をもつ特別な人間だからではない。孤独感に苛まれる人間なら誰でも起こり得る事態である。孤独がもたらす不安は、人の精神を極限まで脅かす。

 

 芸術家といえど所詮は人の子だ。いくら話題作りになるとはいえ、奇人変人のレッテルを貼られて遠ざけられることを歓迎する者は少ない。

 

 真実に向き合えば向き合うほど、周囲の人間から気味悪がられ、理解を進めれば進めるほど理解者を失う。芸術家の抱える苦悩とはまさにこのことだ。そして今回、話題に取り上げるフィンセント・ファン・ゴッホもそんな芸術家の一人だっとといえるのかもしれない。

 

 

狂気の筆跡

 

 フィンセント・ファン・ゴッホはポスト印象派を代表する画家である。実はこの印象派と呼ばれるジャンル、誕生当初、芸術アカデミーから激しく酷評されたという歴史をもつ。輪郭線がなくぼんやりした作風の印象派絵画はあまりにも革新的だった。その価値が認められるまで酷く時間がかかったのも頷ける。

 

 ゴッホもまた、死後に作品の価値が認められた希有な画家である。生前に売れた絵画は「赤い葡萄畑」の一枚だけであり、そんな彼の理解者は弟のデオだけだったという。同時代に親睦を深めた画家にポール・ゴーギャンが知られているが、彼とは数ヶ月の共同生活の末、喧嘩別れしている。

 

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 本作「ゴッホ 最後の手紙」はそんなゴッホ個人の人格にスポットライトを当てるとともに、生前、彼が描き出そうと試みた「アルル」をアニメーションで再現するものである。驚くべきはその製作手法だろう。

 

本作『ゴッホ~最期の手紙~』最大の驚きは、まさにゴッホの燃え上がるような筆致の、迫力ある絵画作品がアニメーションとして動き出すところだ。しかもこの映画で描かれるドラマの大部分が、この手法で描かれている。

 

キャンバスに油絵の具を塗って、一つの絵を完成させたら、次に動く部分をナイフでこそげ取り、また次のコマとなる絵を描いていく。その一枚一枚をカメラで撮影し、高解像度の写真をつなげてアニメーションを作っていくのだ。1秒につき12枚、本編に使われた枚数を集計すると62450枚にも及ぶ。

 

引用:http://realsound.jp/movie/2017/11/post-125543.html

 

 もはや狂気としか表現しようがない。もしゴッホ本人がこの光景を目撃したら、彼はおそらく再び息絶えるだろう。
 このような物言いをしておいて矛盾するようだが、しかし、この狂気を実現させたのもやはりゴッホなのである。彼が生み出した作品と技術、そして芸術家としての精神、それらを現代の画家たちが継承したからこそ、本映像作品は完成へと至った。もちろん、単なる模写でゴッホの作品が現代に蘇るわけではない。が、その一端を感じ取ることができたのだとしたら、我々はその奇跡を祝福すべきだろう。

 

優しさの筆跡

 

 技法以外にも本作の見所は山ほどある。まずはあらすじの紹介。本作の主人公はアルマン・ルーランという一人の青年である。アルマンの父ジョセフ・ルーランは生前、フィンセントと交友関係にあり、彼の書いた手紙を郵便配達員としてよく届けていた。フィンセントの死後、彼が弟テオに宛てた手紙が新たに発見されると、それを届けるよう息子のアルマンに依頼する。仕事を無理やり押し付けられあまり乗り気ではなかったアルマン青年だが、フィンセントという一人の画家を調べていくうちに、次第に彼はゴッホという画家について興味を抱くようになる。

 

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 話が進むごとに、物語の目的はゴッホの死の謎解きへとすり替わっていく。ミステリーでいうところの探偵役としてアルマン青年は、関係者から情報を拾い集めていく。しかし、事件は思うように解決しない。ゴッホを知る人物たちは彼について別々のことを口にするのだ。ある者は陰口を叩き、ある者は天才的センスを褒め称える。ある者は人格者だと説き、ある者は人でなしだと罵倒する。


 イメージの固定化を避けるそのやり口は、非常に共感がもてる。生前のゴッホは、偏見と誤解によって悲惨な人生を送った。本作は、その偏見が現代に引き継がれないように最大限の配慮がなされている。これは優しさと言い換えてもいい。ゴッホの苦痛を少しでも楽にしようという気遣いが垣間見える。ゴッホを知る人間ならその優しさに間違いなく心打たれずはずだ。

 

 長い旅路の果てにアルマン青年は一つの答えを導き出す。ここではあえて言葉にしないが、その答えは残念ながら誰もが納得のいくようなものではない。だが、それでも、我々は受け入れなくてはいけない。なぜなら、その結末を何よりゴッホ自身が望んだからである。我々にできることは彼の遺志を継ぎ、彼のように何かを遺すことだけだ。きっと、ゴッホ最後の手紙は今を生きる人たちの手の中にあるのだろう。