暫定語意

虚構、創作あるいはフィクションに纏わる話

映画「ハクソー・リッジ」 信念を以て戦場を制す

 

監督 メル・ギブソン

出演 アンドリュー・ガーフィールドヴィンス・ヴォーンサム・ワーシントン

 

 

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 キリスト教と戦争の関係性について、次のようなことを考えたことはないだろうか。

 

 「聖書では人殺しを禁止しているのに、なぜ戦争は許容されるのか。人々がもし本気で神を信じているなら戦争など起こるはずはない」

 

 前168~141年に勃発したマカベア戦争。かつてのユダヤ人はローマ軍に攻め入られた際に安息日を理由に戦いを放棄した。「安息日には何もしてはいけない」という神の教えを遵守したのだ。結果、彼らは戦争に敗北した。神の教えに従い、何もしないまま彼らの国は滅びたのである。

 聖書がいかに優れていても相手がそれを理解しているとは限らない。戦争という状況下では敵国の文化事情を無視したやり取りが行われるものだ。「安息日だから戦争はやめよう」「人殺しは教義に反する」そういった理屈は残念ながら通用しない。今も昔もそう考えられてきた。

 

 本作「ハクソー・リッジ」ではその事実とは反する記録がフィルムにて再現される。主人公デズモンド・トーマス・ドスは戦争という狂気を信念という狂気で制した男だ。旧約聖書モーセ十戒の第六戒「汝、殺すなかれ」をその胸に刻み、戦争では通用しないはずの理屈を信念によって貫徹した。


 利他主義や隣人愛、奇跡といったありきたりな言葉で括ってしまうのでは足りない。彼の思考とそれによって生じた一連の行動を、まず我々は現象として捉えるべきではないだろうか。その上で、もう一度考え直すべきだ。彼の身に起きた出来事と本作を観た上であなたの内でどのような変化が生じたのかを。

 

「人殺し」という罪からの解放

 

 アメリカ合衆国の人口の約八割がキリスト教を信仰しているというデータがある。志願者の中にはドスのような従順なキリスト教徒も少なくなかったはずだ。彼らはどのように「汝、殺すなかれ」という教えに対処したのだろうか。

 

 グロスマンは、数少ない例外があるとしても、現代の主な翻訳およびヘブライ語原典からのイディッシュ語のすべての翻訳では、この戒律は「謀殺を犯してはならない」と解釈されているといいます。つまり、ユダヤ教キリスト教諸派の圧倒的多数は、「汝、殺すなかれ」を「汝、謀殺を犯すなかれ」と解釈しているのです。

http://www.tais.ac.jp/faculty/graduate_school/major_incomparative_culture/blog/20130601/24682/

 

「謀殺」というのは、辞書的には「計画して人を殺すこと」です。いうまでもなく、これは「悪い」ことです――この場合、戦時ではなく平時において「計画して人を殺すこと」です。これに対して、上の脈絡での「殺す」は、自分が生き残るため、愛する家族を護るため、仲間を救うため、自分の国を護るため、平和を実現するため、正義を護るためなどの戦いなのです。また、グロスマンは言及していませんが、「殺す」対象は何なのか、これも問題になるでしょうね。いうまでもなく、この対象は、「一般的な人」ではなく、「敵」です。

http://www.tais.ac.jp/faculty/graduate_school/major_incomparative_culture/blog/20130601/24682/

 

 人(敵)を殺すことによって人(仲間)の命を救う、彼らはそのように解釈したのだ。聖書の解釈はその時代の特性に見合ったものが採用される。戦争もその例外ではないということだろう。

 

 しかし、この方法によって全ての問題が解決したというわけでもない。どの時代関係なく帰還兵の心的外傷後ストレス障害発症は社会問題になっている。

 

アメリカでは毎日18人前後の元兵士が自ら命を絶っている。アフガニスタンイラクからの帰還兵だけでも自殺者は数千人にも上り、戦闘中の死者数(6460人)を上回るとみられている。
http://www.newsweekjapan.jp/stories/us/2012/08/post-2647.php

 

 頭で理解していても心が追いつかないことはいくらでもある。人殺しに折り合いをつけたとしても、それは帰還兵たちの救済にはなり得ないのかもしれない。


 本作のキーパーソンであるドスの父親トムも、心的外傷後ストレス障害に悩まされる元米国兵だ。自暴自棄のトムは罪の意識に苛まれて日常的に妻を虐待している。ある日、その仲介に入ったドスは銃を手にして父親を殺害しようする。

 銃とは殺意を殺人に変容させる道具だ。ドスは自らの父親銃口を向けて何を想ったのか。一度それを手にしてしまえば理性など役に立たない、とそう感じたはずだ。

 

 「戦場で銃を持たない」という彼のポリシーは荒唐無稽であまりにも命知らずだ。一般常識を欠いているとしか思えない。しかし本編を観て分かる通り「汝、殺すなかれ」を実行するためにこのポリシーは必要不可欠なものだった。ドスはそれを確信していた。

 

 以上のエピソードからもわかるように、ドスの信念は一時の感情に流されたものではない。むしろ、先々の展開を予測したものであることがわかる。

 ドスは父親が戦場で味わった苦しみを克服したいと考えていたのだろう。聖書の解釈を変えるだけでは救済にならないことを心の内で理解していたはずだ。だからこそ、たとえ周囲からどれだけ反発されようとも自らの心に嘘をつく生き方だけは否定した。そんな彼の生き方は、人殺しの罪から解放される一つの解決策であると同時に、戦場に向かう兵士たちの在り方を根本から問い直すものでもある。

 

良心的兵役拒否者について

 

 本作では良心的兵役拒否者というワードが何度も登場する。

 

本来は,信仰にもとづいて戦争に反対し,兵役に就くこと,あるいは兵役に服しても戦闘業務に就くことなどを拒む行為を指し,その人をconscientious objector(略してC.O.)という。アメリカには古くからあり,クエーカーのように信仰上の理由によると確認されたものは重労働による国家への奉仕を兵役に代えることが認められていた。
https://kotobank.jp/word/%E8%89%AF%E5%BF%83%E7%9A%84%E5%85%B5%E5%BD%B9%E6%8B%92%E5%90%A6-659304

 

 制度が認められていない国もある。例えば、戦前の日本では脱走兵や逃亡兵、さらに兵役を免れようとする者については厳しい処罰が科せられた。また、法律上で良心的兵役拒否者が認められていたとしても第三者がそれを容認するとは限らない。世間から戦争から逃げた臆病者だと罵られ、不当な扱いを受ける可能性も否定はできない。


 本作の主人公ドスは自らを「良心的兵役協力者」を名乗り、軍に配属された後も一切の戦闘行為を拒絶した。その結果、彼は上官から除隊を迫られ命令違反で軍法会議にかけられてしまう。

 

 結局のところ、この良心的兵役拒否者という存在は軍にとって「邪魔」でしかないのだろう。良心的兵役拒否者というのはたとえ本人はその気でなかったとしても、兵士の在り方に一石を投じてしまうのだ。

 戦場での葛藤、その先に待ち受けているのは死だ。もし自らの価値観に疑問を投げかけ銃口を背けたとき、兵士は間違いなく命を落とす。事は人命に関わるのだ。ゆえにドスの上官であるハウエル軍曹は兵士たちの価値観を揺るがす「良心的兵役拒否者」を排除しようと試みた。

  命のやり取りは戦場に辿り着くより前に既に始まっていたといえる。

 

映画「フルメタルジャケット」との比較


 新兵の訓練風景を描いた作品にスタンリー・キューブリックの「フルメタルジャケット」がある。ベトナム戦争に志願する若者たち、彼らは未だ戦場に足を運んだことはない新兵だ。平時から戦時への切り替わり、その変化に耐え抜くため彼らに用意されたのは過酷な訓練だった。


 基本的に人は適応する生き物だ。たとえどれだけ劣悪な環境であろうと大抵のことには順応してしまう。だが、もしその変化に対応できなかったとき、人の精神はいとも簡単に崩壊してしまう。

 ハートマン軍曹を銃殺、その後、自ら死を選んだ微笑みデブもといレナード・ローレンス二等兵。たしかに彼は、仲間の脚を引っ張る落ちこぼれでだったかもしれない。しかしどうだろう。これが訓練キャンプという特殊な環境でなければローレンス二等兵は死なずに済んだのではないか。


 「フルメタルジャケット」を観て「これこそ社会の縮図だ」とあなたはそう指摘するかもしれない。あるいはもっと辛辣に「弱者は死んで然るべきだ」と言い張るかもしれない。もし少しでもそのような思考に陥ったとしたら「フルメタルジャケット」という作品が仕掛けた罠に引っ掛かっているといえるだろう。人の価値を一意的なものに固定してしまう、それこそ戦争の異常性なのだ。


 そもそも弱者とは何だろうか。弱者なる存在が果たして存在するのか。


 ある状況に対して適応できる者と順応できない者がいる、現実はそれだけに過ぎない。ある状況下で価値を見出せなくても、別の分野で活躍する可能性は大いにあり得る。だからこそ、この社会にはあらゆる選択肢が用意されているのだ。


 戦争はたった一つのシンプルな価値観によって支配されている。生き残って敵を殺す、つまり、兵士としての優劣がその人間の価値を決定するのである。そして、兵士に適応できない者はときに悪と見做される。「フルメタルジャケット」はローレンス二等兵の死を以て、観客に戦争の異常性を予見させる。そして、その舞台に選ばれたのは戦場そのものではなく、日常の延長線上にある訓練キャンプだった。

 

 本作は「フルメタルジャケット」と共通するところがある。ジャクソン基地での訓練描写、これについては完全なパロディになっている。ドスはローレンス二等兵とは違いフィジカル面で屈強だが、銃を持たないと宣言した途端、彼は臆病者の烙印を押されてしまう。しかしドスは戦場においても日常的感覚を捨てることなく最後までその信念を貫き通す。ローレンス二等兵のように精神崩壊することもなかった。


 ドスと微笑みデブ、この二人は軍隊の中で「腫れ物」として扱われている。戦場においても日常的感覚を忘れなかったという点で彼らは共通しているかもしれない。だがしかし、この二人は似ているようで決定的に異なるのだ。その信念が指し示すもの、それによって生じる行動、それぞれが迎える結末はまったく別のものとなっている。

 

死を超克する信念

 

 訓練を終えた新兵は沖縄へと派遣される。岩壁を越えた先で彼らを待ち受けていたのは日本兵だ。あの「プライベートライアン」の冒頭十五分にも劣らない鬼気迫る戦闘シーンが展開される。

 目に付くのは日本兵の戦い方だ。戦前、日本では自らの責任を果たすため、あるいは、名誉を保つために自害が適用された。本作でも日本人の上官が切腹する光景や、兵士がピンを抜いた手榴弾で突撃するシーンが挿入されていた。対照的に、キリスト教では自死は罪として大衆から認知されている。米国兵にとって日本兵の自害はさぞ奇妙に映ったことだろう。


 戦後の我々が自害についてどのような感傷を抱くか、それについては今回は語らない。焦点を当てるのは物語上の役割についてだ。当時の日本兵の価値観は死を越えた先にあった。その行動はドスのそれと共通するところがある。


 ドスは仲間の命を救うために単身で戦場に飛び込んだ。その姿は、もはや理屈や感情では説明がつかない。人間離れしているとさえいえるだろう。


 その行動を利他主義や隣人愛、奇跡といった親しみ深い言葉で括っていいものなのだろうか。これは我々の理解の外にある「現象」に他ならないのではないか。

 

 いずれにせよドスはその領域へと到達した。それだけは紛れもない事実なのだ。