暫定語意

虚構、創作あるいはフィクションに纏わる話

映画「シェイプ・オブ・ウォーター」 御伽噺はかくあるべきか

監督 ギレルモ・デル・トロ

出演 サリー・ホーキンスマイケル・シャノンリチャード・ジェンキンスオクタヴィア・スペンサー

 

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 本編を鑑賞したとき、壮絶な違和感に襲われた。というのも「シェイプ・オブ・ウォーター」は、定型的な御伽噺の形式に擬態しながらも、それを容赦なく否定している。ありがちな御伽噺からの脱却を目指していると、そう体感したのである。

 

 本作にはいくつか決定的な違和感がある。

 

 一つはジャイルズの飼い猫が怪物に殺害されたときのエピソードである。今まで大事に飼っていた猫が怪物によって食い殺されたとき、飼い主であるはずのジャイルズの反応はあまりにも呆気ないものだった。おそらく、飼い猫に対する愛よりも怪物に対する同情が優先されたのだろう。ジャイルズが普段猫に対してどのように接していたかは作中の描写が少ないため定かではないが、それにしても怪物よりも遙かに付き合いの長い愛玩動物が、度し難い殺され方をされたとあれば、怪物に対して不信感に覚え、文句の一つや二つ吐き捨てたとしても別段おかしくないはずである。

 

 本編の該当シーンでは明らかに観客を焦らすような演出が挿入されていた。にもかかわらず、結局、ジャイルズ本人は怪物の行動を咎めるような真似はしなかった。ジャイルズがなぜ怪物責めなかったのか。理由をこじつけるとすれば、たぶん彼は怪物が自分たち人間とは全く異なる価値観で生きていることを理解し、それを尊重していたのだろう。しかし、その事実を裏付けるようなジャイルズの人間性に纏わるエピソードはあまりにも少ない。何やらもっと別の理由があるのではないかと勘繰りたくなる。

 

 

 もう一つの違和感は、悪役であるストリックランドの描き方である。怪物に対する態度からもわかるように、ストリックランドは拷問や暴力を厭わない「悪いキャラクター」として描かれている。反面、彼には支えるべき家族がいて、自らの生活を守るために強い信念をもって行動していることも並列して描かれている。社会が認める強い男を演じようとストリックランドはひたむきに努力を続ける。物語終盤、彼は人生のすべてを賭けて怪物狩りに挑む。そんな姿を見せつけられてしまうと、ある種の同情を禁じ得ない。彼が抱く焦燥感、必死さは悪行とはいえ完全には否定できないものである。

 

 もし、デルトロ監督が「シェイプオブウォーター」を単なるハッピーエンドで終わらせるつもりなら、ストリックランドは、まるで同情の余地のない、もはや死んで当然としかいいようのないキャラクターとして描かれていただろう。家族のためではなく、社会のためでもない、己が欲望のためだけに他者を蹂躙する、そんな人格破綻者を採用していたはずだ。しかし、ストリックランドはそのようには描かれなかった。どれだけ卑劣な選択をしても結局、彼は血の通ったヒトであり、根本的には私達と何も変わらない、そのように思わせてくれるキャラクター造形に仕上がっている。

 

 

 

 猫にしろ、ストリックランドにしろ、彼らはなぜ物語から退場しなければならなかったのか。それはおそらく、神に愛されていなかったからだろう。本作における神とは「怪物」であり、もっとメタ的な視点でいえば物語のあらゆる要素を司る「監督自身」である。猫を噛み殺すのは誰か。本編を振り返ればすぐにわかる。それは怪物だったはずだ。ストリックランドを殺害したのは何者か。言うまでもない。これも怪物だ。

 

 神は殺す対象を選択すると同時に生存についても決定権を有する。ラストシーンにおいて、ヒロインのイライザはストリックランドの凶弾に倒れ一度死にかけるが、怪物の奇跡によって命を救われる。なぜイライザは息を吹き返したのか。マイノリティであるのに自分を偽ることなく正直な生き方をしたからだろうか。全否定するわけではないが、それは物語上であまり重要な要素ではないだろう。肝心なのは、イライザが神の寵愛を受けていたという事実だ。イライザが物語上で奇跡を体感できたのは、怪物に愛されていたこと、おそらくそれが最大の要因だろう。

 

 マイノリティであっても幸福になることはあるし、マジョリティであっても悲劇的な運命を辿ることにはなる。そして逆も然り。状況や立場は常に変動するものである。「シェイプ・オブ・ウォーター」とは神の愛の形であり、それは無秩序に意味もなく姿形を変える。

 

 御伽噺は子供たちに知恵を授ける。より良く生きるためにはどうすればいいか。苦難を乗り越え、良い生き方をしたキャラクターはハッピーエンドを迎える。逆に、誘惑に負けたキャラクターには悲劇的な結末を与える。しかし考えてもみて欲しい。良い生き方とは一体何を指しているのか。悪い生き方とは何か。良い生き方について、一つ言えることがあるとしたら、古今東西そのようなものが普遍であった試しはないということだ。時代によって、場所によって、良い生き方というのは変わってしまうものなのである。

 

 この手の御伽噺の背後に隠れているのは、物語の作り手である大人たちの存在である。大人たちは自分たちの都合の良いように子供たちを育てようとする。彼らは子供たちに世の中で全うに生き抜いてもらいたいと願うばかりに、社会のため、時代のため、世の中のためになるようなことばかりを説く。たとえその子供がマイノリティ側であったとしても、マジョリティであるよう振る舞え、と大人たちはそう教えるのだ。極端な表現にはなるが、つまるところ、それまでの御伽噺とは子供たちを誤魔化し、騙すための道具に過ぎなかった。

 

 「シェイプ・オブ・ウォーター」はこれまで当たり前だった御伽噺の構造から脱却しようと試みている。たとえ世間から認められなくても好きなものを好きと叫びたい。ギルトロ監督はそのような思惑をこの映画に忍ばせたのではないだろうか。そのためには、まず既存の御伽噺のフォーマットを破壊する必要があった。

 

 かくして猫は死に、ストリックランドは死に絶え、ただ「良い」だけの御伽噺は崩れ去った。大人たちの思惑に囚われた御伽噺は解放され、遂に子供たちの元へ戻ってきたのである。

 

 当然ながら、このタイプの御伽噺は社会にとって必ずしも「良い」ものとは限らない。子供は社会常識に囚われないその無邪気さゆえに、猫をも殺すこともあるのである。その無秩序と理不尽に世の中すべての人々が耐えられるのであるかといえば、正直かなりハードだといえる。

 

 

 神に愛されなければ死ぬしかない。本作が突きつけるテーマは、御伽噺以上に残虐なものである。その意味において、「シェイプ・オブ・ウォーター」は我々が想像するより、はるかに醜く歪んだ形であるのかもしれない。