Campo Santo開発のPS4向けアクションアドベンチャーゲーム。
ネタバレ注意。
主人公のヘンリーは、とあるバーで大学教授のジュリアと出会う。二人は交際を始め、やがて結婚。幸福な日々を送っていた。そんな生活が続いたある日、ジュリアは病に伏してしまう。病名は若年性アルツハイマー。平穏な日々に暗雲が漂い始める。
徐々に物覚えが悪くなっていくジュリア。大学教授の仕事も務まらず、彼女は仕事を辞めてしまう。やがて日常生活にも支障をきたすようになり、入院生活を余儀なくされる。ジュリアの見舞いのため病院に足を運ぶヘンリー。最初のうちは毎日彼女に顔を合わせていた。しかしその足取りは日に日に重くなり、一日、二日と見舞いを断念する日が増えていく。過酷な現実に押し潰されそうになるヘンリー。彼はある日、森林火災監視員の求人を見つけ、応募を決意するのだった。
本作が求めるゲーム体験
本作は広大な自然が広がる山林が舞台となっている。森林火災監視員として雇われた主人公のヘンリーは、女上司であるデリラとの対話を通じて、山中で発生するあらゆるトラブルを解決していく。ゲーム内容について、一言でいえば「ハイキング」とそう表現するのが相応しい。探索を進めることによって物語が動く、というのが本作の基本的な流れである。
本作の操作について、最近のオープンワールドに慣れ親したプレイヤーにとっては、少しばかり過酷なシステムになっている。というのも本作では、実際に地図を取り出して、コンパスで東西南北を把握し、その上で通行可能となっているルートを自ら導き出さなくていけない。ファストトラベルは使用不能。画面下にミニマップが表示されているわけでもなく、また、馬や車といった便利な乗り物も存在しない。にもかかわらず、マップの端から端まで歩かされることは多々ある。
もうこの際だからハッキリ言ってしまおう。一個人の意見として述べるなら、本作の探索は快適とは程遠い。本作をプレイすれば、最近のゲームがいかにユーザビリティに配慮されているか、勉強になるはずだ。おまけに、一人称視点に慣れ慣れていない人間にとっては画面酔いしやすい。オプションの頭の揺れの項目は、チェックを外したほうがいいだろう。
しかし、このゲームの操作性があまり優れていなかったとしても、それを責める気にはなれない。なぜなら、これらは開発者が用意したゲーム体験の一部だからだ。わざわざマップを広げ、コンパスを確認し、目的地を見つける。運が悪ければ別の場所に辿り着き、また一からやり直す。そんな体験まで含めてゲーム体験の一部だと開発者が考えていたのだとしたら、このような設計にしたのにも自然と納得いく。楽なことばかりではない現実の山林散策を、少しでも再現しようとする思惑がそこに潜んでいるのかもしれない。
もちろん、開発者が意図したからといってすべてが許容されるわけではない。開発者の自己満足がユーザーを大いに苦しめた例も過去に存在する。だが、Campo Santoは誕生して間もないデベロッパーであり、おそらくゲームを開発する上での技術的制約は決して少なくはなかったはずだ。そんな中、本作の設計に辿り着いたのだとしたら、それは決して悪いことではないと思う。技術的制約を工夫によって乗り越えようというスタンスは、インディーズゲームの開発に必要不可欠な要素だと個人的に感じるからだ。
だから、責める気にはなれない。次はもっと良いアイディアでゲームを作ってもらいたいとそう願うだけだ。
身を焦がすような真実と現実
本作の楽しみの一つは、上司であるデリラとの無線会話だ。探索によって得られた成果をヘンリーは逐一デリラに報告する。二人の関係は、高校時代の友人のようで、眺めているだけでも、とても微笑ましい。どんなにくだらないものを見つけてもデリラは反応してくれるし、そのお返しにとデリラもまたくだらないジョークを口にすることがある。
「無線越し」というのもポイントが高い。相手の顔が見えないからこそ、どんな人物なのか想像を引き立てられる。また、移動中ふと声をかけられることもあるので常に画面から目が離せなくなる。
一方で、本作が扱うテーマは非常に重い。現実に苦しみ、楽園に癒やしを求めにきた相手に、さらに過酷な現実を用意して追い詰めるという、まさに死人に鞭打つような内容である。物語冒頭、「ここには傷ついた人間がやって来る」とデリラはヘンリーに教える。これは、現実を忘れてゲームに没頭するプレイヤーの心理状況にも重なるものだ。
最初のうちは、大自然に囲まれた場所でハイキングを堪能するヘンリー。しかし山火事が発生するとその後は、ネガティブな事件ばかり立て続けに発生し、その対応に追われる羽目になる。少しずつ森全体に広がっていく山火事のように、事件の魔の手はヘンリーたち二人に忍び寄る。監視所の窓は何者かの手によって破壊され、無線会話の盗聴まで判明する。そして、火の手が森林火災監視所に至るそのとき、彼らは真実に辿り着き、現実と向き合うことを強要されるのである。
終盤、主人公がとある人物の死体を見つけるシーンは、映画「スタンドバイミー」を連想させる。「死」とは万人に等しく訪れる現実の象徴である。ゆえに「死体の目撃」は現実と向き合う行為に言い換えることができる。映画「スタンドバイミー」においては、この「死体の目撃」が旅の終着点だった。「死体の目撃」によって少年たちの旅は終わり、彼らは再び現実に引き戻されるのである。本作も「スタンドバイミー」と同じ文脈で「死体」が用いられている。不可避の「死」を自覚することによって、ヘンリーは理想郷を追われる。そして彼は現実への帰還を余儀なくされるのである。
ゲームクリアすると我々もまた再び現実に引き戻される。辛い現実から逃避してきたユーザは、暗い気分に陥るかもしれない。しかし、現実もそう辛いことばかりではない。本作のエンドロールの演出は、その事実を我々に優しく伝えてくれる。
どんなに辛い過去があったとしても、過去のすべてが辛かったはずではない。ただ辛い過去を忘れるのではなく、ときに楽しかった過去の思い出を振り返ってみるのも、そう悪くはないはずだ。