暫定語意

虚構、創作あるいはフィクションに纏わる話

アニメ「四畳半神話体系」をひたすら褒めちぎるだけ

 

フジテレビオンデマンドで無料配信中のアニメ「四畳半神話体系」の感想っぽい何か。

lunouta.com


5月12日までなので観てない人は急ぐべし。
あと同監督の「ピンポン」も無料配信してるらしい。こちらも要チェック。

 

 

はじめに

 

「我が生涯に一片の悔いなし」

そんな風にカッコよく宣言して死んでいける人がどれだけいるだろうか。


 それこそ世紀末覇者でもない限り、実現するのは相当に骨が折れるだろう。一生という長いスパンではなく、今現在という単位に限定したところで、それでもやはり怪しいものだ。現状に満足しているかと問われて、ハイと即答できる人はなかなかいない。もしそんな者がいるとしたら、その人物はおそらく、よっぽどの自信家か、煩悩を捨て去った仏様か、あるいは底無しの幸せ者か、そのいずれかだろう。


 原理的に人は後悔する動物だ。過去でも今でも未来でも、堂々と胸を張って生きている人には、なかなかお目にかかれない。

 

 だからこそ、と言うべきなのだろうか。人はあり得たかもしれない未来の形を可能性について想像せずにはいられない。アドベンチャーゲームを一度クリアした後、 もう一度、他の選択肢で遊びたくなる理屈と同じだ。さっきの選択は果たして本当に正しかったのか。もしかすると、今よりもっといい未来があったのではないか。そんな風に考えを巡らせ、再びコントローラを手に取る。たとえ繰り返しの作業ゲーに陥ろうとも、全ルート攻略するまで気が収まらない。それがプレイヤー心理というものだ。


 あり得たかもしれない別の可能性について調べてしまうこと、これは人という種の抑えがたい欲求の一つだ。あったかもしれない可能性には目もくれず、ただひたすら今を見つめる、そんな人は巡り会えない。過去に縛られずに生きる、というのはそれほど難しいことなのかもしれない。現状の自分に自信が持てないからこそ、人はなんとかして今現在とは繋がらない別の可能性を探り、そこに希望を見出そうとする。

 

 今に自信がない人ほど、その原因は過去にあるものだと信じ込む。でもちょっと考えてみて欲しい。よくよく考えてみると、これはおかしな話だ。問題が生じているのは今この瞬間だというのに、その今に目を向けようとしないというのは変ではないか。今の問題は今対処するかこそ解決できるというのに。


 現状を不満を抱く気持ちというのも理解できなくもない。しかしだからといって、今更変えようのない過去を恨むのは、文字通り逆恨みというやつだ。
 人は変わらない。変わろうとしても、そう易々と変われるものではない。しかし、もし変われるとしたら、それは今しかあり得ない。過去でもなく未来でもない。


 そう変わるならば、今しかないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 


 うっせえ! んなこたぁわかってんだよ! こちとら、両親からも仏様からも東進ハイスクールの国語教師からも似たようなこと言われてんだ! 何千回も何百回も阿呆みたいに繰り返しネチネチネチネチ説教されるこっちの身になってみろってんだバーカ!! その程度の話なんて聞くにも値しねーぞ!

 

 

 

 

 とまあこんな具合に、真面目に解説したところで、反抗期の少年にとってはショボい説教にしかならないそんなテーマについて、あるいは、そのあまりのお節介っぷりにフィクションで扱うにはそれ相応の覚悟を強いられるテーマについて、本作は、非常に軽やかなステップで、ときにユーモラスに、ときに真剣に、我々に語りかけてくれる。タイトルはそう、「四畳半神話体系」である。

 

 構成やらテクニックやら本作「四畳半神話体系」について語りたくなる要素はいくつもある。が、そういった細かい部分の解説は他サイトでやってくれているだろうし、なにより、超がつくほど丁寧な作りなので説明するほうがナンセンスというやつである。
 というわけで今回は、もっと大枠で作品を捉えてみることにする。人によっては、少々退屈な話になるかもしれないことを予め断っておきたい。

 

 

その1:テーマは凡庸、だからこそ面白い

 

 一番のポイントは、フィクションとしての「誠実さ」にあると感じる。
 この場合の「誠実さ」というのは、フィクションにおいては語られ過ぎてしまったがゆえに、むしろ語ることが困難になってしまったお題について、正面から取り組み、真面目に戦い、勝利を収めたということを指している。構成やらテクニック、利用できるものは全て利用してやろう、といったスタンスこそ本作最大の特徴なのではないだろうか。


 赤の他人が喋れば単なる説教にしかならないような話を、フィクションとして語ることで人から人へ伝播させることにある程度成功した。これは物語が目指す一つの到達点であり、物語のもつ大きな力でもある。これを真面目にやり遂げたのだから、大したものだと思わず唸ってしまう。真面目なフィクションは退屈だ、とそんな風に思う人も沢山いるかもしれないけれど、こういうことをきっちりと最後までやり遂げたのだから、本作品は十二分に価値があると思える。


 そもそもの話、フィクションの価値とは何か。フィクションとは、事実でないことを事実らしく作り上げることである。もっとシンプルな言い方をすれば、観客に嘘をつき騙すことだ。だから、嘘のつくのが巧いフィクション、嘘が楽しいフィクション、というのはそれだけで価値がある。


 もちろん、嘘をつき相手を騙すというのは一筋縄ではないかない。観客だって騙されないよう常に目を光らせている。一度でも本気で嘘をついたことがある人ならご存じの通り、嘘で人を騙すというのは生半可な気持ちでできることではない。入念な下準備と膨大な工夫が欠かせない。そしてそれは、フィクションにおいても同じことがいえる。


 本屋や図書館に立ち寄れば、嘘のつくのが下手な作品たちにいくらでも出会えるはずだ。実生活での愚痴を架空の登場人物たちに代弁させ、単純な話をあえて複雑化することで展開の間延びを狙い、過剰な演出と装飾でその場を誤魔化す。ちょっと頭が回る人ならば、この手のフィクションには騙されない。下手な嘘というのは、すぐ見破られてしまうものだ。
 巧い嘘に出会ったとき、あるいは、嘘を嘘だと判断できない状況に陥ったとき、人はそこに大きな魅力を感じるのかもしれない。他人事ではない話題や、自分が気付いていないことならば、なおさらその感覚に陥るはずだ。

 


 ハッキリ言おう。本作のテーマはそれほど新しいものではない。どちらかといえば手垢に塗れた題材だといえる。しかし、その手垢に塗れた題材にあえて手を突っ込み、しっかりと丁寧に観客を説得してみせた。本作がクールなのはそういうところなのかもしれない。

 

 

その2:アイディアがアイディアで終わらないから面白い

 

 もはや四畳半神話体系の感想でも何でもない、単なる抽象論っぽくなってきたが、もう少しだけお付き合い願いたい。次は、技術的な巧さと面白さが繋がるかという話題についてだ。「四畳半神話体系は技術的に優れているから面白い」というのは果たして成立するのか否か。


 ちなみに先程は、「嘘をつくのが巧いフィクションは面白い」という話をした。おいおい一緒じゃないか、と思うかもしれないが、実際のところは全く違う。


 技術的な面で、本作を評価したくなる気持ちは理解できなくもない。伏線回収やSFチックな設定、なるほどそれはいい。マルチエンディングと群像劇を足して二で割ったような構成も、たしかに素晴らしいアイデアだ。しかし、それはあくまで技術に過ぎない。技術というのは結局のところ、どこまでいっても技術でしかない。目的に到達するための道具に過ぎず、それ自体が目的にすり替わることなどあり得ない。技巧を模倣するだけでは、本作の面白さを再現するには至らないだろう。


 というわけで、単に物語のテクニックを褒める方向性は見当違いだろう。技術的な巧さと面白さは全く別の感覚だ。では本作の面白さは一体どこから生まれたのか。


 思うに「四畳半神話体系」は、これらのシステム(技術)が、物語のテーマや、現実世界と見事に噛み合ってるからこそ、最高に気持ち良いのではないだろうか。


 例えば、無限に連なる四畳半迷路を巡る冒険は、まさに過去に囚われることの虚しさを実感させるシミュレーションだ。いくつ壁を破ろうが今をどうにかしない限り出口は見つからない。過去に答えを求めても無意味なのだ。他にも、あの四畳半の部屋で感じた息苦しさは、無意味に時間を過ごすことに対する焦燥感とそっくり似ている。


 パラレル世界との情報リンクについては、我々が世界を認知する手法と酷似している。ある情報がある情報と結びつくことによって、現実というのは拡張していくものだ。知れば知るほど、視野は無限に広がっていく。これは小説やアニメなどフィクションに限った話ではない。


 いずれについても、フィクションにしかあり得ない設定だが、不思議なことに、リアルとの繋がりを感じさせてくれる。アイディアの斬新さだけでウケを狙う作品が山ほどある中で、本作はアイディアをアイディアだけに終わらない。おそらくそれが本作の優れている点だ。小手先のテクニックではなく、システム(技術)そのものにも何かしらの意味を見出すことができる。

 

 余談になるが、この仕組みはアドベンチャーゲームの構造と非常によく似ている。あったかもしれない可能性を巡るという話の内容といい、セーブ&ロードを繰り返すシステム的なところといい、システムとテーマの調和を図ろうとするところといい、ADVっぽい。たぶん文学的表現でみっちりと埋め尽くされた原作小説を読めば幾分か感想も変わると思うが、大枠だけを捉えるならば、まさにアドベンチャーゲームそのものだ。

 

 

その3:アニメだからこそ面白い

 

 アニメとして「四畳半神話体系」はどうだったのか、という話をしていなかったので、最後にその話をして終わりにしたいと思う。

 単刀直入に言うと、アニメという媒体にしかできないことに本作は挑戦している、そのように感じた。
 アニメというのは映画と大きく性質が異なる。映画は上映時間中に最終的に一つのことをやり遂げればいい。一方で、アニメはというと連載形式のため、次の話も観てもらわなければ数字が伸ばせない。そのため一話一話盛り上げる工夫は必要だし、続きが気になるように気を配らなくてならない。

 

 二、三話視聴した時点で、この本作が「ループもの」で、さらに「毎回同じ結末」であることに多くの視聴が気付くだろう。記憶が引き継がれないわたしは毎週毎週、同じようなミスを繰り返すだけである。マンネリという点では、九回繰り返しなので、あのエンドレスエイトを追い抜いている。さらに、連載形式が主流のアニメとしては、蛾に慌てる明石さん以外に、毎週引っ張られる要素というのにも乏しい。内容もコメディということもあって、そう必死になって観るようなタイプの作品ではないように思える。

 

 

 さて、「四畳半神話体系」はそんな浅はかな見立てを軽く打ち破ってくれる。
 本作は安易な視聴切りを許さないのだ。


 なぜ視聴者は本作の視聴切りを躊躇するのか。あの中毒性の正体、それは今現実とは繋がらない別の可能性を調べたいという欲求と大いに関係している


 四畳半神話体系はあったかもしれない別の可能性を旅する話だった。そしてその逆、四畳半神話体系を途中まで観て中断するというのは、別の可能性には興味がないと言い張るようなものだ。視聴放棄とは、あったかもしれない別の可能性を調べる権利、それを視聴者自ら放棄する行為に言い換えられるのだ。


 再三述べたように、未練がましい我々は、今と繋がらない別の可能性に希望を見出そうとする傾向がある。あり得たかもしれない別の可能性を調べる欲求というのは、なんとも抑えがたいものだ。ゆえに、視聴を放棄するわけにはいかない。二、三話まで観たほとんど視聴者は「視聴継続」という選択を半ば強制的に迫られるのである。


 アニメの続きが気になって未練がましく視聴を継続する視聴者の姿は、あったかもしれない可能性に必死なってしがみつこうとする主人公の「わたし」と見事にシンクロする。視聴という工程においても、本作は現実(リアル)と作品(テーマ)をしっかりと結びつけてしまうのだ。なるほど、連載形式スタイルというアニメの性質すらも吸収してしまう本作の徹底ぶりには頭が下がる思いである。