暫定語意

虚構、創作あるいはフィクションに纏わる話

「レッド・デッド・リデンプションII」 オープンワールドの終焉に向けて

レッド・デッド・リデンプションIIのネタバレを含む解説記事。本作はRockstar Gamesにより2018年10月26日に発売されたアクションアドベンチャーゲームPlayStation 4Xbox One対応。

 

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一つの時代の終焉

 1848年、米墨戦争にて敗北を喫したメキシコは、カリフォルニアとニューメキシコの領土を献上、結果、アメリカ合衆国は240万平方キロメートルにも及ぶ広大な土地を獲得した。その後、カリフォルニアで大量の金鉱脈が発見され、ゴールドラッシュが到来。多くの白人開拓者たちが一攫千金を狙い、新天地へと足を踏み入れた。以降、1890年に終焉を迎えるまで、アメリカは西部開拓時代にあった。

 時代とは何か。単に、ある特定の場所の、歴史的期間を示す言葉だろうか。無論それだけではない。もっとシンプルに定義するなら、時代とは要するに「変化しない区間」を意味する言葉だろう。文明、生活様式、そして価値観、何にせよその変化がほとんど認められないもの、それらを一括りに丸めたものを我々は「時代」と呼んでいる。Aという概念がAという概念である間、その時代は継続したといえるのだろう。一方、Aという概念がBという概念にすり替わったとき、その時代は終わりを迎えたということになる。

 地球のリソースは有限だ。化石燃料も、食料も酸素も決して無限ではない。同様に植物も動物もそして人間も、命あるものはいつか必ず終わりを迎える。時代も同じだ。時代が人類の歩んできた歴史、その一部分を切り取った区間だというのなら、時代も人間と同じように死を迎える。まるで命ある生き物のように、時代には「死」という概念が存在するのだ。

 時代には寿命がある。人類の歴史を遡ってみればわかるように、世の中は常に何か変化している。人類が生誕した6500万年前から今現在に至るまで、数え切れない多くの変化があり、時代もまた移り変わっていった。同じ時代がいつまでも永遠に続いていくことはない。「変化しない区間」は存在しても「変化しない」ことはあり得ない。なぜなら、変化とは適応であり、適応とは生命活動そのものだからである。「変化しない」存在であり続けることは、死の危険を伴うのである。

 本作「レッド・デッド・リデンプションII」は、そんな時代の終焉を描いてきた。そして、時代の変化に適応できず、不器用に壊滅していったギャングたちを描いた。物語の舞台となる1899年は、西部開拓時代が幕を下ろし、文明社会が勢力を伸ばしつつある時代である。

 

忍び寄る死の気配

 本作のストーリーの背後には、常に死の気配が漂っている。主人公のアーサー・モーガンにとって家族同然であるダッチ・ギャングの仲間たちは、法務執行官や同業者によって次々と無惨な死を遂げる。各地で非道な略奪を繰り返し、数え切れないほど多くの殺人を重ねてきた彼らだが、とはいえその凄惨な最期を見せつけられると、正直なところ同情を禁じ得ない。次は誰が殺されるのか、一体誰が無惨な死を遂げるのか。執拗に繰り返される仲間の死は、アーサーもといプレイヤーに対して実体を伴うリアル死を予感させるものである。


 物語中盤、アーサー・モーガン結核に冒される。医師から寿命数ヶ月と診断され、以降は、残された僅かな日々を指折り数えるようになる。
 1899年時点において、結核は不治の病だった。当時は有効な治療法が見つかっておらず、その診断結果は死亡宣告にも等しかった。病魔に冒された患者は、呼吸困難に陥る日々をやり過ごしながら、目前に迫る死をただ待つばかりであった。
 かつては世界中で流行していた結核だが、1944年ワクスマンらにより抗結核薬が発見されて以降、死亡リスクは飛躍的に下がったとされている。その意味において、結核という病の流行も一つの「時代」に過ぎないのだろう。「時代」の変化に殺され、そしてその「時代」もまたいつか終焉の時を迎える。本作において、結核という病は、時代の移り変わりを象徴する存在といえるだろう。

 

 

 「時代」の変化に適応できず、次第に壊滅していくダッチギャング。その光景を目の当たりにしながらも、仲間たちの間では大きく意見が対立する。「時代」の変化を認めようとしない者、「時代」の変化に気付きながら他人に頼ることしかできない者、 自立可能でありながら仲間を見捨てることができず結果自滅していく者、自暴自棄になり酒に溺れる者、死を目前に生の意義を見いだす者、そして、それらをすべて掌握した上で狡猾に立ち振る舞う者。

 目前に迫る死を見つめながら、ゲーム内のキャラクターたちは多種多様な振る舞いをみせる。主人公であるアーサー・モーガンも、かつての非道に対する贖罪行為を繰り返しながら、僅かな希望を未来の仲間たちに繋ごうとする。

 本作は、精巧な「西部劇シミュレータ」だと評されている。たしかにそれも事実だ。しかしそれよりも、本作がゲーム体験の軸に据えたのは「死期のシミュレーション」ではないだろうか。誤解がないように補足しておくが、これは死の瞬間をリアル再現する試み(ゲームオーバーに対するこだわり)ではない。あくまでも死が訪れるまでの期間、いわゆる「時代の終焉」を精巧に再現するものである。

 

時代の終焉を内包するということ

 今まで「時代の終焉」という大きな枠組みを扱った作品があっただろうか。ゲーム作品の話になると、それほど数は多くないはずだ。自分の知る限りでは「METAL GEAR SOLID」シリーズがそれに近しいことをやっていたように思う。しかし、「METAL GEAR SOLID」が描いてきたのは孤立した「時代」の話であり、「時代の遷移」を一括りに収めたものではなかった。
 先程も述べたように「時代」というものには多くの要素が内包されている。文明、生活様式、そして価値観。それらをゲーム上で表現するには莫大な開発時間と工数がかかる。「METAL GEAR SOLID」は物語のレイヤーでこれらを克服しようと試みたが、一方、「レッド・デッド・リデンプションII」は世界観を構築していく段階で、それらを真っ向から再現しようと試みた。工業地帯と大自然が同居する世界、ギャングとその後の時代を制するマフィアたちが同時に存在する世界、谷間の小さな集落にインディアンたちが隠れ住む世界、それらを本作は見事に描ききった。「時代」そのものではなく、「時代が移り変わっていく様」を描いてみせたのだ。率直に、これは凄まじいことだと思う。人類の為した偉業と、そう言い換えてもいい。「時代の終焉」を描くのスケールの壮大さには驚愕することしかできない。

 

偽造された目的意識を破壊するために

 先程から何度も繰り返しているが、そもそもの話、「時代の終焉」を描くとは、どういうことなのだろう。「時代の終焉」を描くことに一体どのような意義があるのか。

 死を目前にすることで、それまでぼやけていた景色が、はっきりと見えるようになることがある。自分が今何を為すべきか、何を遂げるべきか。人はそのとき初めて「目的意識」をもてるようになるものだ。
 ゲームをプレイする上で「目的意識」というキーワードは極めて重要なものだ。なぜなら、ゲームというジャンルにおいて目的というものは常に与えられるものだからである。あれをしろ、これをしろを、その次はこれをクリアしろ。プレイヤーは制作者側が用意したクエストを淡々と指示通り遂行する。こんなことを繰り返していれば当然すぐに飽きがやってくる。偽造された目的意識に、プレイヤーはいつまでもついて行けないのだ。
 「レッド・デッド・リデンプションII」は「時代の終焉」を物語の題材とすることで、より強固な「目的意識」を作り上げた。物語終盤になるにつれ、何を為すべきか、どういう人生を送るべきか、ゴールが見えてくる。そこに「オープンワールド」最大の強みでもある選択肢の豊富さが繋がり、最終的に作品の没入感へと繋がるのである。

 

徹底した反骨精神

 本作で目立つのは、やはり操作面の煩雑さだ。店で品物を購入する際は、物品を一度手に取ってみる必要があるし、食事についてはこまめに摂取しないとデバフがかかってしまう。愛馬に至っては清潔に保ってやらないとスピードが落ちるし、街を歩けば住民の肩にぶつかり犯罪騒動まで発展してしまう。
 わざわざ指摘してやるのもナンセンスだと思うが、この劣悪な操作感は、明らかに「Rockstar Games」が意図して仕込んだものだ。では何故このような操作感が生み出されたのか。 
 リアリティの追求というのも理由の一つだ。が、それ以外にも要因はあると推測される。「レッド・デッド・リデンプションII」のストーリーは新しい時代の波に抗うものだった。その反骨精神がアクション要素にも強く影響していると考えられる。

 ボタン一つで簡単操作!というのが近年のゲームの流行りである。今年発売された「スパイダーマン」「アサシン クリード オデッセイ」「ゴッド・オブ・ウォー」はまさにその一点を追求したような作品だった。シンプルな操作でありながらも、ボタンの組み合わせ次第で、より奥深いアクションが生まれる。誰もが手軽に遊べて、さらにゲーム慣れしたプレイヤーも満足させるという一石二鳥のアイディア。それは長い間、アクションゲームが目指してきた目標地点だった。
 「レッド・デッド・リデンプションII」のアクションはそれらとは程遠い場所にある。ゲーム業界がこれまで良しとされてきた面白さを完全に度外視してアクションを設計している。
 なぜ、こんな作りにしたのか。これは憶測に過ぎないが、そこには昨今のアクションゲームに対する痛烈な批判があるのではないだろうか。アクションの爽快さというのも、所詮は「時代の流行り」でしかない、とある種の諦観が、本作のアクションには込められているような気がする。現代人が良しとするアクションゲームも、時代によって形作られた価値観に過ぎず、その神話はいつか崩壊するという想いが「Rockstar Games」にあったのではないだろうか。
 結果、「レッド・デッド・リデンプションII」はすべてのアクションを快楽漬けにするという既存の面白さを徹底的に排他した。一番手軽に快楽生み出せる暴力という手法すらも、このゲームにおいては通用しない。指名手配システムによる重いペナルティは、暴力のカタルシス冷や水を浴びせるようなものである。

 

 反骨精神、逆張り。それらがストーリーだけではなく、アクション要素まで反映されているのが、「レッド・デッド・リデンプションII」という作品である。
 ここまでの話を聞いて「ゲームとして当たり前の面白さを否定して退屈なアクションを生み出すことに何の意義がある」とあなたは思うかもしれない。本当にこれだけなのかと。それを裁定するのは、やはり、ゲームをプレイするプレイヤー本人だろう。従来それとは明らかに異なる操作体験を通じて、最終的に得たものがあれば「Rockstar Games」の試みは成功したといえるだろう。その価値は十二分にあったと個人的には思いたい。ボタン一つで簡単に操作できること、華麗なアクションを演出できること、それだけがアクションゲームの本質ではないことを、本作は立派に証明してくれたと思う。

 

Rockstar Games」の贖罪

 先程の話にも挙がったように「Rockstar Games」は「グランド・セフト・オートIII」でオープンワールドの開拓に一役買った会社だ。「グランド・セフト・オートIII」はオープンワールドの起源ともされる作品で、現代のゲームに多大な影響を与えた作品でもある。世界中で爆発的ヒットを飛ばしたと同時に、その過激な暴力描写により世界中から非難を浴びた。当然ながら、暴力に伴うカタルシスをゲームアクションの軸とする、というやり方は「グランド・セフト・オートIII」にも盛り込まれていた。
 すでにお気付きだと思うが、「Rockstar Games」は、「グランド・セフト・オートIII」で発明したオープンワールドの在り方を、「レッド・デッド・リデンプションII」で問い直しているのだ。過去の所業を振り返り、今何ができるか再考する。シナリオだけではなく、ゲームアクションにもその姿勢が根付いていることが窺える。

 

 何が面白いのかといえば、これをインディーズゲームがやるのではなく、大手ディベロッパーの「Rockstar Games」が実現してみせたというところだ。過去の栄光に縋るのではなく、今何ができるかを考えること。口先だけではなく、行動してみせること。これらの手法が確立され受け継がれていけば、より良いゲームが生まれていくことだろう。その意味において、「時代の終焉」を描いた「レッド・デッド・リデンプションII」はまさにこれからのゲームの在り方を描いた未来図といえる。

 

 

 

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