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意味があれば気にしないですむ

ジャンル問わずフィクションの批評、解説やってます

実写版「攻殻機動隊」を奇妙だと感じるワケ


自分探しの旅に出た家出少女が、自分探しの無意味さに気付き、国家警察所属の全身サイボーグ人間になって、母親の待つ家に帰宅する話。

 

文章化すると物凄いインパクトだが、扱っているのは「自分探し」というありふれた題材。哲学で扱うテーマとしては初歩的かつ古典的という印象すら受ける。よくわからんという人はデカルトの身体論でググればそれでよし。


やってることは古臭いのに、そこはやはりハリウッド。数十年前の技術では再現不能な領域の中にあるのは、たぶん間違いない。そういう意味では、最高級のカップラーメンを食べてる気分になれる。押井監督はこれらの均衡を奇妙だと評したのだろうか。

 

 

www.gizmodo.jp

 

哲学に限らず、どんなジャンルでも、深掘りしていくとエンタテインメント性が削がれていくわけで、もしそれなりに売れるもの作ろうと考えるならば、特にテーマ選びには慎重にならなくてはいけない。


おそらく観客も無意識的にそのことを理解していて、どういうことかというと、フラっと暇つぶしに立ち寄った映画館で大抵の人が求めるのは「人生観を根底から覆すような体験」ではなく「そこそこ美味い料理」ということだ。そんな「そこそこ美味い料理」を目まぐるしいスピードで大量生産する興行的かつ工業的手法を確立したハリウッドという場所は、やはりというかなんというか恐ろしい。
近い将来、世界中のエンタメ作家たちはハリウッドの手によって絶滅に追いやられるかもわからない。

 

ちなみに、この実写版攻殻機動隊は、士郎正宗攻殻機動隊押井守攻殻機動隊神山健治攻殻機動隊をミキサーにかけてジュースを作った・・・・・・というわけではなく、こんなこともあろうかと予め用意しておいたデザートのソースとして再利用している、そんな印象が強い。そういう意味では、この映画自体が全身義体のサイボーグみたいなものだ。

というわけで、そこらのへんの要素をこの映画に期待している人がいたら案外、肩透かしを食らうかもしれない。あくまでも、シーンの再現に留めているところが、この映画の良いところでも悪いところでもある。そう考えると、攻殻機動隊という作品群が歩んできた軌跡と立ち位置も含めて、やはりこの映画は奇妙だといえるのかもしれない。

 

久々に映画を観て悶々としてしまい、今回は変なことばかり書いてしまいましたが、スカーレット・ヨハンソンビートたけしを観に行くだけでも十分観に行く価値あります。別にフォローとかなんでもなく、時間的経済的余裕のある人は是非、映画館に足を運んでみてくださいな。

映画「偽りなき者」 他人を信じるな。疑うことを疑え

「Hideo Tube(ヒデチュー)」第六回で紹介されていた映画「偽りなき者」の感想記事です。直接的なネタバレは避けていますが、できることなら鑑賞後推奨。

 

 小島監督の推しっぷりが尋常ではなかったので、気になって気になってようやく鑑賞。なるほど、万人受けするタイプの映画ではないけれども、あの「ミスト」を越える胸糞っぷり&ラスト二重のどんでん返しは映画ファンならば必見。もちろん、それだけでは終わらないのがこの「偽りなき者」。この問題について一人でも多くの人に考えてもらいたい、と布教の衝動に駆られるそんなタイプの作品。

 

 監督はトマス・ヴィンターベア。主演はマッツ・ミケルセン。ちなみに彼はこの作品でカンヌ国際映画祭の男優賞を受賞したとのこと。

 

 

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 目の前の嫌な現実から逃避するための映画。大笑いして、涙を流し、今この瞬間を忘れ去る映画。そのあまりのくだらなさ故に、次の日の朝にはどんな内容だったのか思い出すことも難しい映画。世の中はそのようなエンタメ系映画で溢れている。


 そんな映画たちを、こよなく愛するあなたは、日曜日の昼下がりにふとレンタルビデオ店に立ち寄り、意気揚々と自宅に戻る。ふかふかのソファの上でだらしない姿勢のままこの映画を観始め、そして、開始三十分もしないうちに心底不快な気持ちに陥るのだ。


 不意打ちを食らうのも流石に気の毒なので、先に宣言しておきたいと思う。

 この映画に、嫌な現実を吹き飛ばす痛快さを期待してはいけない。鬱憤を解放したときに生じるカタルシスなど以ての外だ。そんなものは犬にでも喰わせてしまえと、この映画はそんな楽観的な態度で構えていた鑑賞者に背後からドロップキックをくらわせ、本気で食い物にしてしまう。

 

 ここに記録されているのは、悪意の発生とその軌跡だ。制御不能の悪意は、まるで自然災害のように、辺り一帯を蹂躙し、何一つ恩恵をもたらすことのないまま身勝手に消滅していく。現場に残されるのは、修復不能の傷痕と、それによって撒かれた新たなる悪意の種だ。

 

 「偽りなき者」を観終えた後、あなたはモヤモヤした気分に囚われるかもしれない。というのも、この映画は、人々の「悪意」について語りこそするものの、それを回避する手法や打開策については一切提言してくれないのだ。人という醜悪な存在に対する僅かな希望を容赦なく潰しにかかってくる「衝撃のラストシーン」を観る限り、親切さとは真逆の印象を受けるだろう。円満な解決法など世の中には存在しない、そういった厭世観を、あなたはこの映画から感じ取るかもしれない。

 

 一見、この映画は「我々はこのような悪意について、どのように対峙すればよいのか」そういった問題について解決を放棄しまっているように思える。・・・・・・しかし、どうだろう。人の気分を不快にさせる、たったそれだけの目的のために、この映画が作られたというのは、流石に考えにくい。というか、考えたくない。なので、もっと別の思惑があるのではないかと疑ってみることにする。そう、例えば、この映画は答えを出せなかったのではなく、あえて答えを出さなかったのだ、とか。


 悪意の対処法について安易な解決を導き出さなかった理由――もっと噛み砕いた表現をするならば「もっとこういう風に生きたら人生楽しくなるんじゃない?」といったエンタメ系映画にありがちな提案を良しとはしなかった理由――それは、「偽りなき者」で描かれる「悪意」の問題について、観客一人独りがそれぞれ一生を賭けて向き合わなければいけない問題であると、そう訴えているからではないだろうか。


 何をすれば正解なのか、世の中にそんなわかりきった正解は存在しない。小学校の計算ドリルのように、ページの最後に答えがくっついていることなんてことはまずあり得ない。


 たった一つの冴えたやり方、絶対無敵の攻略法がもし仮に存在するのだとしたら、それは「悪意」ついて人々が真剣に向き合い、それぞれが正解を探し求める、ということなのだろう。だからこそ、この映画は「答えを提示する」ではなく「観客全員に投げかける」という手法を選んだのだ。

 

 予め用意された答えに従うだけでは駄目だ。それでは、ルーカスに石を投げた連中と変わらない。何が正解で何が間違っているのか、自分で導き出した答えにこそ価値がある。他人を信じるな。疑うことを疑ってみなければ、この映画と同じ結末を辿ることになる。ハッピーエンドに辿り着くことなど夢のまた夢だ。


 もしあなたが思考することを億劫だと感じるならば、この映画は退屈にしか映らないかもしれない。それは当然のことだ。この映画は「思考停止」する者を徹底的に拒み、忌み嫌っている。「思考停止」こそ諸悪の根源であり、自らの考えをもたずに集団の意思に流されること、それこそ「悪意」が生まれる瞬間なのだ。

 

「キングコング: 髑髏島の巨神」 弱肉強食では語れない強さ


 この映画に弱肉強食というフレーズはあまりしっくりこない。神に見放された存在から消えていく、という方向性で観たほうが色々と納得できる内容だと思った。というのも、純粋な強さ比べをさせるならば、コングに知性を備えた闘い方をさせるべきではなかったし、知性まで含めて弱肉強食だと主張するなら、今度は、人間側の振る舞いに疑問が生じてくる。


 怪物たちもひっくるめ、この映画の登場人物たちは、神に見放された者から脱落していく。たしかに、サバイバルにおいて強さという指標は重要だ。しかし、それ以上に運が無ければ生き残れない。本作はその事実を強く意識しているのだと、個人的には感じた。


 一番わかりやすい例で言えば、髑髏島に住む人間の部族だ。彼らは島の守護者であるコングを絶対的な神として崇めている。神に見放された瞬間、彼らを出迎えるのはスカルクローラーの大顎とリバーデビルの巨大な脚、つまり、絶対的な死だ。部族の存在それ自体が、信仰と死の関係性を強調している。


 ところで、髑髏島の住民たちは言葉を持たなかった。これはおそらく、神(コング)とのコミュニケーションに言葉は不要、ということなのだろう。コングはある程度の知性を備えているが一方で言葉をもたない。住民たちは自身の正当性を、非言語コミュニケーション、つまり、態度や行動で示さなくてはいけないのだ。そういう意味で、ブリー・ラーソンがコングの目の前でヘリコプターの下敷きになったバッファローを助けたのは、全滅エンド回避に導くファインプレーだった。逆にアレがなければ全員、コングに惨殺されて終了という展開も考えられたのだろう。いや、流石にないか。


 それにしても何から何までスケールのデカイ神である。機銃の一斉掃射を受け深手を負ったにもかかわらず、島の野生動物一匹助けただけで赦しを与え、オマケに生命保険まで付けるとは。なるほど、この神は器までデカイ。


 コングと島の住民たちが声のなき信頼関係を築き上げる一方、やたらと会話する癖に結束力ゼロという悲しき存在、それが我ら人間である。 周囲の説得に対して、まったく聞く耳を持たないサミュエル・L・ジャクソン。見事なまでに死亡フラグを乱立させる彼が、一体いつ血飛沫を上げるのか。もはや恒例となった「マザーファック」の台詞と併せて、待ちわびた観客は数知れない。


 今思えば、大佐のパッカード大佐率いる部隊の敗北は、物語開始時点で既に決定していたのかもしれない。今回、舞台の背景となったベトナム戦争は、アメリカの無敗神話に唯一傷を付けた戦争でもある。敗戦の記憶を引き摺る彼らは、コング討伐で仲間の無念を晴らそうと意気込む。しかし残念なことに、勝利の女神に見放された状態では、その結果は見えている。

 

 

 本題に戻ろう。この物語の軸が弱肉強食ではないと思う最大の理由は、キングコングとスカルクローラーの決戦シーンにある。ラストの闘いは、正直どちらが勝利しても違和感がないほど拮抗していた。人間側を味方につけたのがコングの勝因という仮説もイマイチ納得できない。ブリー・ラーソンを救出しようとしてコングは窮地に陥っているし、勝敗を分けるキーにはなっていないはずだ。

 

 では結局、何が勝敗を分けたのか。暴力や知力では図れない領域で勝敗が決するとしたら、それは運以外に考えられない。コングがスカルクローラーに勝利できた最大のポイントは、映画の神――つまり、監督に愛されていたことだろう。コングが勝利できたのは、コングが勝つと監督が決定したからである。


 身も蓋もない話になってしまったが、この映画はそういう理屈が通用する、あるいは、通用してもいいと思わせてくれる、そんな映像体験を提供してくれる。


 今作はエンドロールで伏線が張られ、続編の可能性が仄めかされていた。キングギドラゴジラが登場するようだが関係ない。ネタバレしよう。次もコングが勝つ。コングが監督という映画の神に見放されない存在であり続ける限り、コングは常に勝利し続けるのだ。

ストーリー理解を深めたい人向けの「ひるね姫」解説

 

 神山健治監督作品「ひるね姫」のストーリーがよくわからなかった人向けの解説記事。非常に完成度の高い作品なので、もっと理解を深めたいという人は是非、この記事に目を通して欲しい。

 

アーサー・C・クラークが定義したクラークの三法則の「高度に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」という言葉をヒントにした「いつも描いているテクノロジーを魔法に置き換えてみよう」という発想でした。

社会の大きな問題と切り結ばない作品を作る意味はあるのか、神山健治監督が「ひるね姫」に込めたものとは? - GIGAZINE

 

GIGAZINEインタビューでの神山監督の発言を抜粋。


 今回の「ひるね姫」の内容はとにかくこれに限る。現実と夢が入り混じる曖昧な世界で、神山監督が何を描きたかったものとは何か? 結局のところそれは、過去においては空想の産物でしかなかったテクノロジーの数々が、既に現実のものになりつつあるということなのかもしれない。

 

・なぜロボットが登場するのか

 夢の中で、全自動運転技術の代替として活躍するエンジンヘッド。その造形はなんというか某アニメに登場するそれを彷彿とさせる。

 アニメで見かけるいかにもな感じの巨大ロボと、最近ニュースでも話題になっている全自動運転車、実をいうとこの二つには大きな共通点がある。両者ともハードウェアとソフトウェア、さらに言えば操縦士、この三つが揃った時点で、ようやく真っ当に機能するという点だ。

 

神山監督の師匠ともいえる押井守監督。その代表作の一つに「機動警察パトレイバー the Movie(以下劇パト1)」が挙げられる。

 

本作はロボットアニメとしては“リアルロボット系”に属する。しかし、従来的な巨大ロボットものにおけるような「異世界からやって来た様な」「遥か未来を想像した」ものではなく、「現実の20世紀中に存在した技術からさして遠くない世代の工業生産品」としてのロボデザインが従来作品と一線を画する点である。そのため、それまでの巨大ロボットアニメが描いてきた「スーパーヒーローと悪の戦い」あるいは「戦争」等のような現代日本人にとっての“非日常”ではなく、現実の“日常”に自然に巨大ロボットが溶け込んだ情景描写が、強いリアリティをもっている。

機動警察パトレイバー | 機動警察パトレイバー Wiki | Fandom powered by Wikia

 

 パトレイバーの企画コンセプトは「実社会に適応した巨大ロボットを生み出す」というものだった。もちろん、フィクション上でしか成立しない巨大ロボットという存在をリアルに落とし込むには、それなりの工夫が必要になる。その工夫の一つが、巨大ロボットを制御するためのソフトウェア、つまり、オペレーティングシステムを導入するというアイディアだった。


 「劇パト1」では、機体(ハードウェア)に搭載されたOS(ソフトウェア)が制御不能な状態に陥ってしまったらどうなるのか、という問題について触れている。「劇パト1」が公開されたのは1989年。1996年にインターネットが誕生し、そこでようやく世間一般にコンピューターが普及し始めたことを考慮に入れると、「ロボットにOSを導入する」というアイディアがいかに時代を先取りしたものだったのか想像するのは難しくない。また、逆の見方をすれば、コンピューターも無い時代に「巨大ロボットにオペレーティングシステムを搭載する」という発想が生まれたというのは、それくらい違和感のないごく自然な論理展開だったのだろう。


 しかし、とはいったものの、やはりフィクションというのは、どこまでいってもフィクションでしかない。「巨大ロボットにオペレーティングシステムを搭載する」という発想が、いかにリアリティのある設定だったとしても、所詮、巨大ロボットというのは妄想の産物に過ぎないのだ。そもそも話、「実社会で生きるロボットを作る」というコンセプト自体、矛盾の塊みたいなものであり、どうやったって巨大ロボットなんて馬鹿げた夢は実現しようがない。

・・・・・・少なくとも、ついこの間までなら、そのようなことも言えたのかもしれない。

 

  あれから二十八年、当時では考えられないようなテクノロジーがいくつも誕生した。コンピューター、インターネット、携帯電話、スマートフォンクラウド、最近の話題に限れば、人工知能ビッグデータ、そして、IoT。全自動車技術もそのうちの一つだ。それまで人の感覚に頼らなければいけなかった操作を、コンピューターに一任するという奇抜な発想。言うまでもなくそれはハードとソフトの融合に他ならない。


 ハードウェアとソフトウェアと操縦士、この三位一体の関係性は、エンジンヘッドと全自動運転車、そのどちらの技術にも当てはまる。二十七年前では「夢」に過ぎなかった巨大ロボット技術、それと同じコンセプトで動くマシンが完成に近づいているという事実。正直これは驚くべきことではないだろうか。
 演出の都合上、ココネの夢にロボットが出現した。無論それだけではない。全自動運転車と巨大ロボットの関係性、これに気付くことでようやく「ひるね姫」にロボットが登場した理由について考察できるのだろう。

 

・ココネはなぜ夢を見るのか

 夢と現実が入り混じる「ひるね姫」の世界観に混乱したという人も少なくないかもしれない。「夢パート必要だった?」なんて感じてしまった人も中にはいるだろう。しかし、やはりというかそれはナンセンスなツッコミだ。なぜかといえば、夢と現実の区別がつかない世界に我々は生きているということ、そして、今我々の生きる現実が夢に近づいていること、これこそ「ひるね姫」という作品が目指した終着点だったからだ。


 物語序盤、主人公のココネが見る夢は彼女だけが知る夢でしかない。夢の中で彼女は自由だ。空想の世界のお姫様エンシェンとして、やりたい放題好き勝手に遊んでいる。

 しかし、物語が進むにつれて、その夢が現実世界に影響をもたらすという事実が判明する。夢の中で起きたことが今度は現実世界にも反映されるようになり、さらに、その夢を他人と共有できる、という事実まで明らかになる。自動運転で大阪へ移動してしまった後、怪しい人物に狙われていることに気付いたココネの幼馴染みモリオが「今すぐ夢を見ろ!」なんてココネに信じられないような台詞を吐くシーンがあるが、あれはココネの夢が現実に対してそれほど強い影響力があるということを示唆しているのだろう。(いや、単なるギャグシーンか)


 新幹線で居眠りするシーンで、ココネの夢は母親の記憶に纏わるものだということが判明。これも重要なシーンだといえる。その夢が誰のものなのかという問題は、誰の夢が現実に反映されているのかという疑問に直結するからだ。ココネの母親は全自動車技術の開発者だった。つまり、夢とは全自動車技術の実現を指しているのである。


 最終的にココネの夢は、登場人物たち全員が共有するような大きなものへと変貌していく。序盤から中盤にかけては現実と夢が交互に描かれていたのに対し、クライマックスではもはや夢と現実の区別がつかなくなっていく。この変化は一体、何を意味しているのか? そう、答えは簡単だ。夢が現実に成り代わるということ、イコールそれは夢が叶うということだ。ココネの見た夢は、ココネの母親が見た夢だった。その夢が叶うということは、全自動車技術の実現を願った彼女の夢が、現実に反映されたということを意味している。


 最後にもう一つ。ココネの母親が見た夢は、いつの間にか全員の夢になっていた。多くの人と未来のビジョンを共有すること、もしそれが夢を叶える(夢を現実にする)ための条件だというのなら、物語が進むにつれて夢の規模が大きくなった理由も、なんとなく察しがつくだろう。

 

・高度に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない

 全自動運転技術を技術的革新と捉えるか、あるいは大した技術ではないと判断するか、それは人それぞれだろう。しかしながら、過去のある時点において、あらゆる技術はすべて革新的なものだった。旧石器時代から見つめればマッチは大した発明品だし、中世時代からしたら宇宙ロケットなんて信じられないような発明だろう。


 もし「巨大ロボットなんて作れない」と断言する輩がいれば、それは嘘だと教えてあげるといい。どんな果てしない未来の技術も、常に現実の技術の延長線上にある。巨大ロボット技術は全自動運転技術の延長線上にあったように、未来の可能性というのも今この瞬間と連続的に繋がっている。

 

 「高度に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」

 

 アーサー・C・クラークはクラーク三原則でそのように言い遺した。もし、どんな夢も叶うのだとしたら、我々はいつか魔法の世界で生きることになるのだろう。少なくとも、我々の生きる現実は「魔法の世界」、言い換えれば「夢」に向かって着実に進んでいるのだ。

「ラ・ラ・ランド」 渋滞に鳴り響くクラクション


 最近観た映画の中でいえば、「ラ・ラ・ランド」は断トツにわかりやすかった。
 夢を追い求める者ならば誰しも、何を貫き何を犠牲にするか、その問題にはまず間違いなく直面する。なぜならば、人は夢を追うだけでは生きていけないからだ。世間を無視する行動をとり続ければ、それだけ周囲との軋轢が生まれる。夢を追うこと、それは犠牲を選択することと等しいともいえるのだろう。

 

 ストーリーは単純明快。それでも、どうしても引っ掛かるポイントがひとつだけあった。何かというとそれは、ロサンゼルスのハイウェイで人々が一斉に踊り出すシーン。あまりにも鮮烈なオープニングに、心を奪わた観客も少なくはないだろう。
 猛烈な違和感を覚えた理由、それは一つだ。なぜ、彼らは何の脈絡もなく踊り出したのか、その意図がどうしても掴めなかった。彼らは一体何者で、なぜ急に踊り出したのか。物語が中盤に差し掛かっても、その謎は一向に明かされないままだった。


 そもそもの話、ミュージカル映画では、こちらがビックリするようなタイミングで歌い出すことが多い。わけのわからないタイミングで曲をぶっ込んでくる、それ自体は珍しくない。

kindantheatre.com


 登場人物の心境を歌として表現するのがミュージカル、ということであれば、歌は感情表現の延長線上にあるということになる。もしその感情が何の前触れもなく爆発したとき、観客は登場人物たちの心境を理解できないまま歌を聴かされることになる。ミュージカル映画を鑑賞する観客が「置いてきぼりにされた」と感じるのは、まさにこの瞬間だろう。


 さて、ハイウェイのシーンはどうだったのか、もう一度考えてみたい。感情の発露により彼らが踊り狂ったというのは、まあ納得できなくもないが、結局彼らが何者だったのかという問題は一向に解決しない。歌うという行為が登場人物たちの心境を汲み取るのに一役買ってくれれば良いのだが、なぜ彼らが楽しそうだったのかは、結局のところわからない。


 「ラ・ラ・ランド」全体から観ても、このシーンは異色であったように感じる。冒頭にも記したとおり「ラ・ラ・ランド」の魅力の一つに「わかりやすさ」というものがあった。たとえ40年代から50年代の伝統的なジャズに詳しくなくても、現実や夢に浸るロマンチシズムというものには誰もが共感できる。世間から理解されない苦しみ、そういったものを題材にする一方で、「ラ・ラ・ランド」は不理解による「わかりにくさ」を徹底的に排除した作品だった。そしてそれはミュージカル映画という性質に対しても存分に発揮されていたように感じる。
 というのもハイウェイ以外のミュージカルシーンでは常に「流れ」というものを意識していたはずだった。パーティーに出掛けるとき(Someone in the Crowd)、セブとミアが恋に落ちた瞬間(A Lovely Night)、オーディションの最中(The Fools Who Dream)などなど。これらすべてのシーンには、いつ曲が流れてもおかしくない、そんな雰囲気に包まれていた。感情の変化が物語によって十分描かれていたため、彼らの感情の昂ぶりに対してそこまでの違和感を覚えることはなかった。


 ハイウェイのシーンの違和感を存分に感じ取ってもらったところで、ハイこれでお終い、というのも流石に歯切れが悪い。ということで、結局あのシーン何だったのかということについてもう少し掘り下げてみたい。
 キーワードは「渋滞」だ。この映画で渋滞シーンに遭遇するタイミングは二回ある。一度目はいうまでもなくオープニングシーン、そして二度目は、ラストシーン。
ハリウッドで女優として大成したミアは、夫とのドライブの途中で渋滞に捕まる。このとき、脇道に逸れることで彼女は難なく渋滞を回避する。
 渋滞を抜けたのは、彼女がハリウッドで大成したことのメタファーである。渋滞を抜けた=夢を叶えたという事実を意味しているのだ。その証拠として、渋滞を越えた先には、彼女と同じく長年の夢を叶えたセブが待機している。
 さて、既にご理解いただけたと思うが、一応説明しておきたい。冒頭の渋滞シーンで踊っていたのは、それぞれの夢を追うロマンチストたちだった。渋滞というのは夢が叶うその瞬間を待たされ続けていることを意味し、さらに、彼らが愉快そうな表情を浮かべて「 Another Day of Sun 」を歌い出すのは、いくら困難な状況に直面しても、それを乗り越えられる夢をもっているから、ということに他ならなかった。


 ちなみに、渋滞に紐付くメタファーはもう一つある。それはサブの車が鳴らすクラクション音だ。あの耳障りな騒音は、作中でも周囲から度々疎まれているいるが、唯一、同じく夢を共有するミアにとっては騒音ではなくなっている。冒頭の渋滞シーンでは、クラクションに暴言を吐くが、その後、セブと親密な関係を築き上げていくにつれ、騒音はお互いの居場所を知らせるためのツールとして描かれるようになっていく。理想を追い求めるその姿は周囲にとっては単に鬱陶しいものでしかないのかもしれない。しかし、二人にとってはまさにそれこそお互いを引き寄せ結びつける強い絆になるのだ。

音を大事にしているミュージカル映画にとって、クラクションのような煩わしい音は、本来であれば、マイナスの意味をもつ記号になるのかもしれない。しかし、「ラ・ラ・ランド」ではこのクラクション音を否定もしなければ、肯定もしなかった。あくまでも一歩引いた目線で、二人の幸福を見守り、その鬱陶しさを遠回しなやり方で表現したのである。単に二人の恋路と夢だけを追うロマンチズムに溢れた映画であれば、冒頭シーンでクラクションが鳴り響くことは、まずあり得なかっただろう。


 というわけで、今回は「ラ・ラ・ランド」のメタファーを追ってみた。一見、わかりやすいストーリーであっても、隠し要素があることが多く、そういう意味で物語というのは、やはり侮れない。

「ラ・ラ・ランド」を観てきたのでアカデミー賞の話

業界人ウケする映画というのがこの世の中には一定数存在する。今年、アカデミー賞最多六部門を受賞した「ラ・ラ・ランド」もそういった類いの作品の一つだろう。

この映画を観た人ならば、容易に想像できると思う。というのも、ハリウッドの第一線で活躍するような業界人というのは、少なくとも人生で一度は、この映画の登場人物たちと似たような葛藤を経験をしたはずだ。明日食べていけるのかどうかもわからない残酷な世界に身を投じ、夢に憧れ、酔い、迷い、嘆き、そういった苦悩の末、最終的に流れ着いた場所がハリウッドのスポットライトの下であり、今の彼らの地位なのだ。

彼らの心のうちには「この作品には賞を与えなくちゃいけない」といったある種の使命感のようなものが働いているはずだ。映画好きに好かれるタイプの映画、映画好きなら評価しなければいけないタイプの映画、なんてそのような表現が適切かもしれない。

 

もちろん、それが駄目なんて言うつもりはない。「そうやってすぐ内輪ネタに走るから今の映画はくだらない」なんて、馬鹿丸出しの批判をするつもりもない。

そもそもの話、アカデミー賞というのは、アメリカ映画芸術科学アカデミーという名前の業界団体が決定する賞、つまり、業界人が業界人のために作った業界人のための賞のことだ。したがって、業界人たちが評価する映画が入賞するというのは、至極当然のことで、その事実も知らずに「アカデミー賞も落ちぶれたな」なんて指摘するのは見当外れもいいところだ。

また逆も然り。アカデミー賞を獲った=この映画は面白い、という方程式が必ずしも成り立つとは限らない。いくら映画好きに評価されたところで、その映画が万人ウケするかどうかは、やはり別の問題だ。そういう意味で、友人にオススメの映画を聞かれたとき、アカデミー賞受賞作品をチョイスするのは些か早計かもしれない。

 

遠回しな説明になってしまった気がする。閑話休題。話を戻そう。

この映画がアカデミー賞を獲れた理由は明白だ。ラ・ラ・ランドまさに映画好きのための映画だった。さらに言えば、他映画へのリスペクトもあるし、金はかかってるし、画も華やかだし、熱もあるし、おまけに夢までついてくる。

至れり尽くせりとはまさにこのことだろう。しかし、だからこそ同時にそこが弱点になるとも思うのだ。要するに隙がない。隙がないからこそ、この作品は手放しに褒めてしまえる。

 

超超超超当たり前のことだが、絶対的な評価なんてものは存在しない。絶対的な面白さというのも、この世のどこにもない。結局のところ、物語のテーマというのは個人の価値観や経験に根付くものだ。そこに気付かず、作品を手放しに褒めてしまうと、批評や感想というのは途端に面白くなくなる。そんな気がしてならないのだ。

 

結果的に、負け惜しみみたいな感想になってしまったが、今回話した「隙」のような話は、作品を語る上でかなり重要な部分になると個人的には考えている。「隙」とは作品の弱点のようなものだ。結局のところ、この「隙」を含めて作品を許容できるかという論争が、その作品を本当の意味で受け入れられるかという問題に繋がってくるのだと思う。 

・・・・・・「ラ・ラ・ランド」本編の感想はまた今度。

映画「虐殺器官」 ツッコミ不在の恐怖に、君は抗えるか

 

※原作「虐殺器官」を読んだ人向けの記事です。

 

 虐殺器官という小説を一つのブラックコメディとして捉えている人は意外と少ないかもしれない。

 自分にとって虐殺器官とは、最高に下品でなおかつグロテスクな形をしたブラックコメディだった。もし間違って吹き出したりでもした瞬間、周囲から不謹慎だと罵られるようなそんな質の悪いタイプの冗談。でも、そういった世間の凝り固まった生真面目な雰囲気すら、この小説はさらに笑いを助長させるためのスパイスとして転化してしまう。そんな悪意の塊のようで、しかしながら完全には否定できないそんなリアリティのあるところが、虐殺器官の魅力の一つだったように、今となって思う。

 

d.hatena.ne.jp

 

 物語終盤の独白、主人公のクラヴィス・シェパード大尉(以下、大尉)がある嘘を付いている可能性が仄めかされている。というか十中八九、主人公の台詞は嘘だ。そのように断言できる。

 

 

anond.hatelabo.jp

 

 「大嘘」でも指摘されているように、クラヴィスは、米国を除く全世界のために米国国内で虐殺の文法を発動させたわけではなかった。精神世界型の敵である彼は、世界中に屍者の光景を再現しようとした、というのが事の真相だろう。

 

 貴様ら拝金主義者と一緒にするな」狂信者の罵倒は聞き飽きていた。狂信のかたちは宗派に拠らない。どこにあっても似たり寄ったり。どんな戦場でも、どんな悲惨でも、同じような人間が同じようなことを言う。コメディ番組みたいだ、とウィリアムズはぞっとするほど朗らかな声で笑った。繰り返しはギャグの基本だからな、とつけ加える。(p.209)

 

 映画版でもウィリアムズが全く同じ台詞を呟いていたのを思い出してもらいたい。要するに、これと同じことを主人公クラヴィスはラストで繰り返したのだ。

 

  ぼくは罪を背負うことにした。ぼくは自分を罰することにした。世界にとって危険な、 アメリカという火種を虐殺の坩堝に放りこむことにした。アメリカ以外のすべての国を 救うために、歯を嚙んで、同胞国民をホッブス的な混沌に突き落とすことにした。とても辛い決断だ。だが、ぼくはその決断を背負おうと思う。(p.281)

 

 「とても辛い決断だ」なんて台詞は、実は真っ赤な大嘘で、本当は末尾に(笑)を付けてやるべきなのだ。それっぽい適当な言い訳を繕って、シェパード大尉は米国を混沌に陥れた。世界中のあらゆるテロリストたちと同じように「正義」のための虐殺を敢行した。 

 「ギャグの基本は繰り返しだからな」とは原作でのウィリアムズの発言。つまり、ラストの繰り返しオチも、ギャグの文法ということになる。

 

(解説厨を自称する作者が、これを説明しようとしなかった理由はなんとなくわかる。読者の解釈の幅を狭めてしまうという理由もあると思う。・・・・・・が、一番は

「はい、皆さん。実はここ笑うところなんですよ~」
なんて宣言されたら、いくら笑えるシーンでも笑えなくなってしまう。というかそれ、この記事にも当てはまることなのだが。むむむ。)

 

 

 さて、本題に戻ろう。映画の虐殺器官はどうだったか。
 ツッコミ不在の恐怖とはまさにこのことだろう。いや、むしろここまで徹底されていると意図的に排除された、そんな可能性すら視野に入れなくてはいけない。
 映画版と小説版の最大の違いは、主人公が死者の光景について興味を抱いてないという点だ。プロローグの主人公の語りをカット。母親の死を選択する病院のシーンも総カット。映画版のクラヴィス・シェパードはアレックスの死に直接的に関与したにもかかわらず、その死について考えを巡らす描写は一切なかった。


 これらの描写の有無が、物語の結末の解釈に大きな影響を及ぼすことは明白だ。なぜなら、原作小説においては、クラヴィスが死者の光景に興味関心を抱いたことが、米国国内で虐殺の文法を発動する動機と結びついていたからだ。


 死者という存在に対する興味関心がすっぽ抜けてしまっている以上、クラヴィス大尉は自らの「正義」とやらのために本気で「罪を背負った」ということになる。これはある意味、原作より残酷で無慈悲な結末だ。クラヴィス大尉は虐殺の光景に魅せられたのが原因ではなく、正義という名の下に平気で人を殺してしまった。

 虐殺器官を有していないなら、なぜ人は人を殺せてしまえるのか。

 答えは単純だ。そこに理想や目的がある。

 ただそれだけの理由で人は人を殺せるのだ。

 この映画に虐殺器官という理由付けはそもそも不要だった。

 そういうことにはならないだろうか。


 クラヴィス大尉の過ちというのは、本来、盛大に笑い飛ばしてやるべきだった。「アンタそれ、他のテロリストとやってること一緒じゃん! 嘘つくなよ! ホントは大量の死体見たいだけなんじゃないの!?」とそんな具合に。しかし、映画版は原作以上に、クラヴィス大尉のかましたボケにツッコむことが難しくなっている。先述した主人公が死の光景を引きずっていない、というのもその一因だろう。他にも、伏線として生きてくるはずのギャグ関連の文脈が抜けてしまったのは非常に痛い(何故かまさかのときの宗教裁判ネタだけ残っていたけど)。

 

 映画版におけるラストシーン。クラヴィス大尉は虐殺の文法を広めるため、米国全土に向けてジョンポールという人物について語り始める。まるで正義の体現者のそれであるかのように、彼の行いは清々しく描写されていた。しかしどうだろう。原作小説に準えて、あなたにも少しだけ考えてもらいたい。クラヴィス大尉の行動は果たして本当に正しかったのか。もしあなたが本気でクラヴィス大尉のように思い、考えることができたとしたらそれは危険なことだ。あるいはそうでなくても、この物語の説得力に騙されてしまったとしたら、あなたには自らの正義や理想のために虐殺を実行できる素質があるといえるかもしれない。

 それはまさに氏が予見した9・11以降の未来なのではないだろうか。

 

 テロリストや戦争を推進しているアメリカの人たちは、まさに「誰々人は敵」という単位で戦争をして、関係のない人を大勢巻き込んでいます。「しょせんはアメリカ人の」とかいう人は、こういうテロリストや戦争屋さんとまったく同じだと思って問題ありません。国内世論と自分の考えのズレについて思うだけで、そういうことが鈍感に過ぎるとは誰にでも容易にわかりそうなものですが、そういうことにはあまり考えがいかないようです。民族や国家という単位で人を扱いだした時、にんげんはいともたやすく無神経に、残酷に、すべてのにんげんは違うということに鈍感に、なれてしまうのです。

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 原作の虐殺器官には、徹底したディテールとそれによって構築されたSFの世界観の中に、いくつもの悪意が散りばめられていた。もちろん、それを悪意と捉えるか、ありのままの事実の列挙として捉えるか、それを完璧な意味で判断することはできない。
 伊藤計劃という作家は死んだ。今頃、伊藤計劃後なんてキーワードを持ち出す気にはならないけれど、こういうことを気付かせてくれる人を、物語を通じて訴えてくれる人を、我々は純粋に一人失ったのだ。


 物語をどう捉えるか、そんなことは個人の自由だ。見たいものだけ見て、好きなように感じるしかない。結局、人はそのようにしかできていないし、その営みを停止させることは不可能だ。

 

 そもそも、自らの作品について語らない作者は、読者にとって初めから死んでいるにも等しい存在なのだ。作者が目前にいない以上、好き勝手にその物語について解釈するしか道はない。それはどのような物語にも救いがあると同時に、危険因子として成立するポテンシャルを秘めているのだ。作者不在の作品だからこそ、その事実を忘れていけないのだと思う。