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意味があれば気にしないですむ

ジャンル問わずフィクションの批評、解説やってます

「夜明け告げるルーのうた」 解説と考察

 監督 湯浅政明
 脚本 吉田玲子

 

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 内気な少年カイが人魚ルーと知り合い、次第に心を解放していく、そんなお話。


 高校生バンドのサクセスストーリーのように見せながら、一方で、思春期な少年と純粋無垢な人魚との心の触れ合いをやってみたり、よくある漁村の揉め事を扱ったと思えば、今度は、民族伝承が紛れもない現実として立ち塞がり村全体を襲ってみたりと、なかなかやりたい放題である。もちろんそれは、物語として一貫性に欠けるという意味ではなく、テンポ良く展開を転がすための工夫に相違ない。事実、それぞれ小出しにしていた諍いは、物語終盤には綺麗さっぱり片付いてしまう。ギャグも丁寧に挟んでくれるし、そういう意味で、本作は観客に優しいエンタメ系映画といえるのかもしれない。

 

 「心から好きなものを、口に出して『好き』と言えているか?」という監督の発言通り、物語の焦点は「好きなことを好きと告げる」というその一点に絞られている。

 

 物語のヒロイン、気に入ったものを見つけては好き好きと節操なく連呼する人魚ルーは、言わずもがな作品のテーマを体現するキャラクターである。基本人外でありながら、彼女は、大好きな音楽を聴いている間だけ人の子供の姿に変身することができる。この設定は、単にパラソルを持った女の子を浜辺で踊らせるために用意したものなのか。否、そうではない。人魚から人への変身は、種族間の繋がりを意味している。「人魚とは何か」「人間と人魚の違いは何か」といった謎を紐解くヒントになり得るはずだ。

 

 人魚にあって人に欠落しているもの――それは「好きなことを好きと告げる」ための「素直さ」に他ならない。人魚を「素直さ」の象徴する記号として仮定すると、好きなことに没頭している間だけ人魚は人の姿になるという物語上の設定は、好きなことに没頭しているときだけ人は素直になれる、というメッセージに置換することができる。要するに、ルーが大好きな音楽を前に人の姿に変身できるのは、人は好きなことに真摯に向き合える――好きなものの前では素直でいられることを意味している。心から好きなことに対してならば人も人魚のように素直な存在になれる、といった前向きな意味合いが、この設定に込められているのだろう。

 

 好きなものに素直になる、といった現象について趣味や仕事の世界ならば理解しやすいかもしれない。音楽に熱中していた主人公カイや、傘作りの職人であるカイの祖父は見事その一例に当てはまる。では、もっと広い視野で考えてみたらどうか。たぶんそれは地域愛や愛国心、さらには博愛主義に代表される言葉に姿を変えるだろう。


 さて、今のように概念や行為単位でならば好きなものに素直であることはそれほど難しいことではない。では、好きなものの対象が「人」であった場合、これはどうなるのか。おそらく、途端に事情が変わってくるはずだ。他人の顔を窺うからなのか、気恥ずかしいだけなのか、あるいは、ツンデレなのか。親子愛だろうと恋愛だろうと、人は好きな「人」を前に思ったように振る舞えない。素直になれないものである。


 それでも、素直になれるタイミングというのは少なからず存在する。例えば「好きなもの」の立場が脅かされたとき、窮地に陥ったとき、人はそれを「守ろう」と画作する。大抵の人間は、自分の趣味を侮辱されたらまず間違いなく反論するだろう。自国の領土が奪われればそれは戦争へと発展していくはずだ。作中の話題でいえば、漁村としての立場の維持するため人魚ランド再興を反対した村民もこれと同じだ。遊歩の祖父は愛する故郷を復興させるために人魚ランドを計画し、一方で、村民たちは代わり映えのない日常を守るためデモンストレーションをした。お互いが「好きなもの」を守るため衝突する、そんな光景である。軋轢とはお互い大切なものを守ろうとした結果、自然と生じるものなのだ。

 お互いが好きなものために守るため衝突する、という構図は作中で何度も繰り返される。例えばそれは、ルーの父親が炎に身を包まれながら娘の危機に駆けつける場面だ。

 

 実はこのとき娘の危機を目の前にして暴走した父親がもう一人いた。遊歩の父親である。事の発端は、家出中の遊歩が「人魚に攫われた」とSNSで嘘のメッセージを残し、それを遊歩の父親が見つけ、人魚の捕縛を実行に移したことである。ファイアシャークトルネード(?)なルーパパの登場で見落とされがちだが、実はこれ、父親VS父親という物理的にもシチュエーション的にも熱いシーンなのだ。普段は娘の顔色ばかり窺い、父親(遊歩の祖父)に会社の実権を握られてしまう頼りない遊歩の父だが、このときばかりは、海老名水産を私軍化し人魚絶対殺すマンとして剥き出しの感情を露わにする。まさに「好きなものに素直になる」を象徴するシーンであり、「好きなもののために守るために争う」代表的なシチュエーションである。娘の危機に駆けつける父親の姿を、人魚と人間の立場からそれぞれ対等に描いている。

 

 「村の在り方」、「種族」、その次にくる相手は「自然」である。物語終盤、大規模な水害が漁村全域に襲いかかり深刻な被害をもたらす。人魚の叫び声を引き金に呼応する「おかげ様」は、人魚を想定外の危機から救う自動防衛システムに近しい存在である。この「おかげ様」と「人魚」の関係性は、先述の例における「父親」と「娘」の繋がりと酷似している。本場面においても「好きなもののために守るために争う」光景は再現されるのである。


 「おかげ様」の暴走を食い止めるという共通の目的のもと、登場人物たちは種族という壁を乗り越え一丸となる。大局的に物事を俯瞰することによって、お互い好きなものを守ろうとしていた、という事実をようやく認め合うのである。かくして人と人魚との誤解は解け、その代償として、人魚は漁村から去って消えるのである。

 

 本作は、好きなことを好きと告げるという光景を「歌」や「行動」、さらに「言葉」に変換して再現しようと試みた。そしてそれは湯浅監督含める制作陣の態度、要するに、アニメーション表現にも同じように顕れている。


 ひたすら繰り返される光景を見届けて、どのような感想を抱くかは人それぞれだろう。気恥ずかしさのあまり目を逸らす観客も中にはいたかもしれない。あるいは、大人向けではない、という魔法の言葉で誤魔化してみせるかもしれない。

 

 しかし残念なことに、それは本作が目指した世界ではなかったはずだ。その気恥ずかしさを乗り越え先に、本作で描かれた光景は存在していた、そのはずだ。


 では一体どうすればいいか。手始めに「素直」になることから始めてみるといいだろう。たぶん今より少しだけ気楽になれるはずだ。

「ノー・エスケープ 自由への国境」 解説と考察

 

監督はホナス・キュアロン。
キャストは、ガエル・ガルシア・ベルナルジェフリー・ディーン・モーガン他。
原題は「No Escape

 

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 本編開始から僅か数十分足らずで、物語は大きく動き出す。


 アメリカ合衆国への不法入国を試みるメキシコ人集団が、ある一人の男に命を狙われる。砂漠地帯を横断する一行。彼らの遙か後方から男が忍び寄る。中年のその男は高台からスナイパーライフルを構えると、不法入国者たちに向け銃撃を開始する。最初の犠牲者はガイド役の男だった。銃声が聞こえたとき、不法入国たちの目の前には、すでに死体が転がっていた。すぐさま事態の異常性を察知した彼らは、叫び声を上げ、遮蔽物のない砂漠地帯を当てもなく逃げ惑う。


 射程距離内に入った不法入国たちを、男は冷徹に、そしてあくまで事務的に射殺していく。まるで嫌な仕事を押し付けられたと言わんばかりに、その慣れた手付きで淡々とリロードを繰り返す。中年の男には殺人という行いに対して一切の躊躇いがなかった。その証拠に、目の前で恋人を殺害されて泣き喚く女性に、彼は無慈悲にも銃口を向け引き金をひく。


 あまりにも一方的な虐殺風景であるために、観る人が観れば猛烈に気分を悪くするかもしれない。しかし、その感覚こそ作品を追う上で何より重要な手掛かりとなる。虐殺の理由を探るため、あれこれと考えを巡らすことができるというわけだ。この虐殺シーンは、本作をより深く考えてもらうためのきっかけ作りであり、そして、物語の流れを決定付けるターニングポイントでもある。なので、ヘイトクライムだと指摘するのは些か早計であるように感じる。

 

 

 

 

 

 さて、本作にはほとんど会話シーンが存在しない。登場人物たちは「逃げろ」か「伏せろ」か「危ない」以外の言葉をほとんど発しない。ということはつまり、必要最低限に抑えられた描写から、内容を察しなければいけないということである。
 本作の台詞の少なさについても、一考の余地があるのかもしれない。

 

「なぜ彼がこんなに冷血な殺人者なのか、なぜこの役がこの状況に置かれているのかなど、悪役を演じる時はそういったことを考えている」

スタッフ突撃レポート:【動画】『ノー・エスケープ 自由への国境』ジェフリー・ディーン・モーガン、悪役を演じるときに考えることとは? | 海外ドラマNAVI

 

 

 冷徹な殺人鬼サム役を演じたジェフリーはインタビューでこのように答えている。
 実は全くその通りで、このサムという男、なぜ不法入国たちを狙うのかという直接的な説明が作中で一切出てこない。彼が相棒のトラッカーに向けて呟く断片的な台詞とその行動パターンから、観客は辛うじて彼のパーソナリティを組み立てることができる。


 一つわかることがあるとしたら、サムは公的な治安部隊に属さない、いわば自警団であるということである。これは序盤の警察とのやり取りでしっかりと描かれているが、不法入国を通報しても動かない警察の代わりに、サムは移民を追い払う役を自ら買って出ているらしい。愛国者という表現が正しいだろうか。おそらく、彼のライフル銃と特徴的な帽子も、独立戦争時代のミニットマンに由来しているのだろう。


 背景不明の殺人鬼サム。なぜ、製作サイドがこのような見せ方を選んだのか、その理由は二つ考えられる。
 まず一つ目は、純粋にサスペンスとして盛り上げるためだ。もし、サムに明確な人格を与えれば、観客はサムに同情してしまう可能性がある(あくまでまともな人格だった場合)。これをやってしまうと、追い掛ける側にも追い掛ける側の理由があるのだと観客が納得してしまうため、サスペンスとして致命的欠陥を抱えることになる。


 そして二つ目は、実はこれが作中で最も重要なポイントなのだが、サムの人格を隠すことこそ監督の狙いであり、「ノー・エスケープ」という作品の本質であるという仮説である。


 ハッキリと描写されていないというだけで、不法入国たちを惨殺するサムにも何かしらのバックボーンは存在するはずである。例えば彼自身、自分は一人孤独に国を守っていんだ、とそのように考えているのかもしれない。アメリカの抱える移民問題を誰よりも身近に感じ、人一倍危機感を抱いていたがゆえに、結果的にあのような凶行に及んだ可能性が高い。そうでなければ、わざわざ辺境の土地で犬と二人で「狩り」をしようとは考えもしないはずだ。彼がキャンプシーンで露わにしたあの怒りは、もはや我々の想像を遙かに凌駕する次元に位置していたのかもしれない。一方で、その怒りが一体何によって暴走したのか、世界情勢に詳しい人ならば想像するに容易だろう。


 さて、想像すればするほどサムの人格が明らかとなっていくが、ここらで一度ストップして、先ほどの問題に戻りたい。問題とは、会話が一切存在しないという状況こそ本作が一番描きたかった光景なのではないかという話だ。今試してみたように、少し想像を巡らせば、相手の置かれた状況というのはある程度、予想することができる。しかし、本作ではこのようなお互いを理解しようとする工程が意図的に削除されてしまっているのだ。描かれているのは、不気味なまでの沈黙と虐殺の光景である。両者はお互いの国籍を確認すると、あとは興味がないよと言わんばかりに憎悪をぶつけ合う。憎しみは憎しみを増長させ、最終的にそれは私的な殺し合いへと発展していくのだ。


 会話が発生しない状況こそ「異常」であることに我々は気付くべきなのだ。お互いのこともよく理解せず、無言で銃口を向ける「無意味さ」と「虚しさ」を本作は浮き彫りにしている。

 

 

 

  終盤、サムの相棒であるトラッカーが主人公に殺害されてから物語の流れは一変する。
それまでの糸を張りつめたような緊張感は薄れ、その代わりに、疲弊した男たち悲痛な「鬼ごっこ」が幕を開けるのである。特に岩山シーンの逃走劇が印象的だ。まるで犬が自らの尻尾を追い回すように何度も周回を繰り返し、途中で岩の上に昇ってみたり、昇ったと思ったら今度は降りてみたり。まるで家臣から逃げるため城内を駆け回るバカ殿のコントのようである。


 サスペンスとしては異常なまでのテンポの悪さ。物語の進行を遅延させているのには、もちろん理由がある。必要以上に用意された空白の時間は、今までの経緯を振り返るための時間である。


 なぜ、国境の線を跨ぐだけで人と人が殺し合っているのか。そもそも、事の発端は何だったのか。考えれば考えるほど、その無意味さに気付き、途端にやるせない気持ちになってくる。馬鹿馬鹿しくなってくる。なぜこんなことをしているのか。どうしてこんなことになったのか。この殺し合いに一体どれほどの価値があるのか見出せなくなってくる。


 スタッフロール直前で、ハイウェイを見つけた!と歓喜する主人公を見ても、そこに大きなカタルシスは感じられない。彼がこれまで一体何に振り回されてきたのか。それを想像すると、アメリカでの生活に幸せが待っているとは到底思えない。主人公以外の唯一の生き残りであるヒロインについても重傷を負っていたはずだ。主人公が必死に砂漠を横断して背負ってきた彼女は、既に死体ではないのか。それらの不安要素は解消されることはなく、物語は終わりを迎える。

 

 

 

 この旅で誰が何を得たのか、考えれば考えるほど馬鹿らしくなってくる。彼らは等しく失ったのだ。だからこそ、本作をラストを飾るに相応しいのは空虚感である。そしておそらく、その感情を想起させるためだけに、この映画は作られたのかもしれない。

アニメ「四畳半神話体系」をひたすら褒めちぎるだけ

 

フジテレビオンデマンドで無料配信中の「四畳半神話体系」の感想っぽい何か。

lunouta.com


5月12日までなので観てない人は急ぐべし。
あと同監督の「ピンポン」も無料配信してるらしい。こちらも要チェック。

 

 

 

 

・はじめに

 

「我が生涯に一片の悔いなし」

そんな風にカッコよく宣言して死んでいける人がどれだけいるだろうか。


 それこそ世紀末覇者でもない限り、実現するのは相当に骨が折れるだろう。一生という長いスパンではなく、今現在という単位に限定したところで、それでもやはり怪しいものだ。現状に満足しているかと問われて、ハイと即答できる人はなかなかいない。もしそんな者がいるとしたら、その人物はおそらく、よっぽどの自信家か、煩悩を捨て去った仏様か、あるいは底無しの幸せ者か、そのいずれかだろう。


 原理的に人は後悔する動物だ。過去でも今でも未来でも、堂々と胸を張って生きている人には、なかなかお目にかかれない。

 

 だからこそ、と言うべきなのだろうか。人はあり得たかもしれない未来の形を可能性について想像せずにはいられない。アドベンチャーゲームを一度クリアした後、 もう一度、他の選択肢で遊びたくなる理屈と同じだ。さっきの選択は果たして本当に正しかったのか。もしかすると、今よりもっといい未来があったのではないか。そんな風に考えを巡らせ、再びコントローラを手に取る。たとえ繰り返しの作業ゲーに陥ろうとも、全ルート攻略するまで気が収まらない。それがプレイヤー心理というものだ。


 あり得たかもしれない別の可能性について調べてしまうこと、これは人という種の抑えがたい欲求の一つだ。あったかもしれない可能性には目もくれず、ただひたすら今を見つめる、そんな人は巡り会えない。過去に縛られずに生きる、というのはそれほど難しいことなのかもしれない。現状の自分に自信が持てないからこそ、人はなんとかして今現在とは繋がらない別の可能性を探り、そこに希望を見出そうとする。

 

 今に自信がない人ほど、その原因は過去にあるものだと信じ込む。でもちょっと考えてみて欲しい。よくよく考えてみると、これはおかしな話だ。問題が生じているのは今この瞬間だというのに、その今に目を向けようとしないというのは変ではないか。今の問題は今対処するかこそ解決できるというのに。


 現状を不満を抱く気持ちというのも理解できなくもない。しかしだからといって、今更変えようのない過去を恨むのは、文字通り逆恨みというやつだ。
 人は変わらない。変わろうとしても、そう易々と変われるものではない。しかし、もし変われるとしたら、それは今しかあり得ない。過去でもなく未来でもない。


 そう変わるならば、今しかないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 


 うっせえ! んなこたぁわかってんだよ! こちとら、両親からも仏様からも東進ハイスクールの国語教師からも似たようなこと言われてんだ! 何千回も何百回も阿呆みたいに繰り返しネチネチネチネチ説教されるこっちの身になってみろってんだバーカ!! その程度の話なんて聞くにも値しねーぞ!

 

 

 

 

 とまあこんな具合に、真面目に解説したところで、反抗期の少年にとってはショボい説教にしかならないそんなテーマについて、あるいは、そのあまりのお節介っぷりにフィクションで扱うにはそれ相応の覚悟を強いられるテーマについて、本作は、非常に軽やかなステップで、ときにユーモラスに、ときに真剣に、我々に語りかけてくれる。タイトルはそう、「四畳半神話体系」である。

 

 構成やらテクニックやら本作「四畳半神話体系」について語りたくなる要素はいくつもある。が、そういった細かい部分の解説は他サイトでやってくれているだろうし、なにより、超がつくほど丁寧な作りなので説明するほうがナンセンスというやつである。
 というわけで今回は、もっと大枠で作品を捉えてみることにする。人によっては、少々退屈な話になるかもしれないことを予め断っておきたい。

 

 

・その1:テーマは凡庸、だからこそ面白い

 

 一番のポイントは、フィクションとしての「誠実さ」にあると感じる。
 この場合の「誠実さ」というのは、フィクションにおいては語られ過ぎてしまったがゆえに、むしろ語ることが困難になってしまったお題について、正面から取り組み、真面目に戦い、勝利を収めたということを指している。構成やらテクニック、利用できるものは全て利用してやろう、といったスタンスこそ本作最大の特徴なのではないだろうか。


 赤の他人が喋れば単なる説教にしかならないような話を、フィクションとして語ることで人から人へ伝播させることにある程度成功した。これは物語が目指す一つの到達点であり、物語のもつ大きな力でもある。これを真面目にやり遂げたのだから、大したものだと思わず唸ってしまう。真面目なフィクションは退屈だ、とそんな風に思う人も沢山いるかもしれないけれど、こういうことをきっちりと最後までやり遂げたのだから、本作品は十二分に価値があると思える。


 そもそもの話、フィクションの価値とは何か。フィクションとは、事実でないことを事実らしく作り上げることである。もっとシンプルな言い方をすれば、観客に嘘をつき騙すことだ。だから、嘘のつくのが巧いフィクション、嘘が楽しいフィクション、というのはそれだけで価値がある。


 もちろん、嘘をつき相手を騙すというのは一筋縄ではないかない。観客だって騙されないよう常に目を光らせている。一度でも本気で嘘をついたことがある人ならご存じの通り、嘘で人を騙すというのは生半可な気持ちでできることではない。入念な下準備と膨大な工夫が欠かせない。そしてそれは、フィクションにおいても同じことがいえる。


 本屋や図書館に立ち寄れば、嘘のつくのが下手な作品たちにいくらでも出会えるはずだ。実生活での愚痴を架空の登場人物たちに代弁させ、単純な話をあえて複雑化することで展開の間延びを狙い、過剰な演出と装飾でその場を誤魔化す。ちょっと頭が回る人ならば、この手のフィクションには騙されない。下手な嘘というのは、すぐ見破られてしまうものだ。
 巧い嘘に出会ったとき、あるいは、嘘を嘘だと判断できない状況に陥ったとき、人はそこに大きな魅力を感じるのかもしれない。他人事ではない話題や、自分が気付いていないことならば、なおさらその感覚に陥るはずだ。

 


 ハッキリ言おう。本作のテーマはそれほど新しいものではない。どちらかといえば手垢に塗れた題材だといえる。しかし、その手垢に塗れた題材にあえて手を突っ込み、しっかりと丁寧に観客を説得してみせた。本作がクールなのはそういうところなのかもしれない。

 

 

その2:アイディアがアイディアで終わらないから面白い

 

 もはや四畳半神話体系の感想でも何でもない、単なる抽象論っぽくなってきたが、もう少しだけお付き合い願いたい。次は、技術的な巧さと面白さが繋がるかという話題についてだ。「四畳半神話体系は技術的に優れているから面白い」というのは果たして成立するのか否か。


 ちなみに先程は、「嘘をつくのが巧いフィクションは面白い」という話をした。おいおい一緒じゃないか、と思うかもしれないが、実際のところは全く違う。


 技術的な面で、本作を評価したくなる気持ちは理解できなくもない。伏線回収やSFチックな設定、なるほどそれはいい。マルチエンディングと群像劇を足して二で割ったような構成も、たしかに素晴らしいアイデアだ。しかし、それはあくまで技術に過ぎない。技術というのは結局のところ、どこまでいっても技術でしかない。目的に到達するための道具に過ぎず、それ自体が目的にすり替わることなどあり得ない。技巧を模倣するだけでは、本作の面白さを再現するには至らないだろう。


 というわけで、単に物語のテクニックを褒める方向性は見当違いだろう。技術的な巧さと面白さは全く別の感覚だ。では本作の面白さは一体どこから生まれたのか。


 思うに「四畳半神話体系」は、これらのシステム(技術)が、物語のテーマや、現実世界と見事に噛み合ってるからこそ、最高に気持ち良いのではないだろうか。


 例えば、無限に連なる四畳半迷路を巡る冒険は、まさに過去に囚われることの虚しさを実感させるシミュレーションだ。いくつ壁を破ろうが今をどうにかしない限り出口は見つからない。過去に答えを求めても無意味なのだ。他にも、あの四畳半の部屋で感じた息苦しさは、無意味に時間を過ごすことに対する焦燥感とそっくり似ている。


 パラレル世界との情報リンクについては、我々が世界を認知する手法と酷似している。ある情報がある情報と結びつくことによって、現実というのは拡張していくものだ。知れば知るほど、視野は無限に広がっていく。これは小説やアニメなどフィクションに限った話ではない。


 いずれについても、フィクションにしかあり得ない設定だが、不思議なことに、リアルとの繋がりを感じさせてくれる。アイディアの斬新さだけでウケを狙う作品が山ほどある中で、本作はアイディアをアイディアだけに終わらない。おそらくそれが本作の優れている点だ。小手先のテクニックではなく、システム(技術)そのものにも何かしらの意味を見出すことができる。

 

 余談になるが、この仕組みはアドベンチャーゲームの構造と非常によく似ている。あったかもしれない可能性を巡るという話の内容といい、セーブ&ロードを繰り返すシステム的なところといい、システムとテーマの調和を図ろうとするところといい、ADVっぽい。たぶん文学的表現でみっちりと埋め尽くされた原作小説を読めば幾分か感想も変わると思うが、大枠だけを捉えるならば、まさにアドベンチャーゲームそのものだ。

 

 

・その3:アニメだからこそ面白い

 

 アニメとして「四畳半神話体系」はどうだったのか、という話をしていなかったので、最後にその話をして終わりにしたいと思う。

 単刀直入に言うと、アニメという媒体にしかできないことに本作は挑戦している、そのように感じた。
 アニメというのは映画と大きく性質が異なる。映画は上映時間中に最終的に一つのことをやり遂げればいい。一方で、アニメはというと連載形式のため、次の話も観てもらわなければ数字が伸ばせない。そのため一話一話盛り上げる工夫は必要だし、続きが気になるように気を配らなくてならない。

 

 二、三話視聴した時点で、この本作が「ループもの」で、さらに「毎回同じ結末」であることに多くの視聴が気付くだろう。記憶が引き継がれないわたしは毎週毎週、同じようなミスを繰り返すだけである。マンネリという点では、九回繰り返しなので、あのエンドレスエイトを追い抜いている。さらに、連載形式が主流のアニメとしては、蛾に慌てる明石さん以外に、毎週引っ張られる要素というのにも乏しい。内容もコメディということもあって、そう必死になって観るようなタイプの作品ではないように思える。

 

 

 さて、「四畳半神話体系」はそんな浅はかな見立てを軽く打ち破ってくれる。
 本作は安易な視聴切りを許さないのだ。


 なぜ視聴者は本作の視聴切りを躊躇するのか。あの中毒性の正体、それは今現実とは繋がらない別の可能性を調べたいという欲求と大いに関係している


 四畳半神話体系はあったかもしれない別の可能性を旅する話だった。そしてその逆、四畳半神話体系を途中まで観て中断するというのは、別の可能性には興味がないと言い張るようなものだ。視聴放棄とは、あったかもしれない別の可能性を調べる権利、それを視聴者自ら放棄する行為に言い換えられるのだ。


 再三述べたように、未練がましい我々は、今と繋がらない別の可能性に希望を見出そうとする傾向がある。あり得たかもしれない別の可能性を調べる欲求というのは、なんとも抑えがたいものだ。ゆえに、視聴を放棄するわけにはいかない。二、三話まで観たほとんど視聴者は「視聴継続」という選択を半ば強制的に迫られるのである。


 アニメの続きが気になって未練がましく視聴を継続する視聴者の姿は、あったかもしれない可能性に必死なってしがみつこうとする主人公の「わたし」と見事にシンクロする。視聴という工程においても、本作は現実(リアル)と作品(テーマ)をしっかりと結びつけてしまうのだ。なるほど、連載形式スタイルというアニメの性質すらも吸収してしまう本作の徹底ぶりには頭が下がる思いである。

 

実写版「攻殻機動隊」を奇妙だと感じるワケ


自分探しの旅に出た家出少女が、自分探しの無意味さに気付き、国家警察所属の全身サイボーグ人間になって、母親の待つ家に帰宅する話。

 

文章化すると物凄いインパクトだが、扱っているのは「自分探し」というありふれた題材。哲学で扱うテーマとしては初歩的かつ古典的という印象すら受ける。よくわからんという人はデカルトの身体論でググればそれでよし。


やってることは古臭いのに、そこはやはりハリウッド。数十年前の技術では再現不能な領域の中にあるのは、たぶん間違いない。そういう意味では、最高級のカップラーメンを食べてる気分になれる。押井監督はこれらの均衡を奇妙だと評したのだろうか。

 

 

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哲学に限らず、どんなジャンルでも、深掘りしていくとエンタテインメント性が削がれていくわけで、もしそれなりに売れるもの作ろうと考えるならば、特にテーマ選びには慎重にならなくてはいけない。


おそらく観客も無意識的にそのことを理解していて、どういうことかというと、フラっと暇つぶしに立ち寄った映画館で大抵の人が求めるのは「人生観を根底から覆すような体験」ではなく「そこそこ美味い料理」ということだ。そんな「そこそこ美味い料理」を目まぐるしいスピードで大量生産する興行的かつ工業的手法を確立したハリウッドという場所は、やはりというかなんというか恐ろしい。
近い将来、世界中のエンタメ作家たちはハリウッドの手によって絶滅に追いやられるかもわからない。

 

ちなみに、この実写版攻殻機動隊は、士郎正宗攻殻機動隊押井守攻殻機動隊神山健治攻殻機動隊をミキサーにかけてジュースを作った・・・・・・というわけではなく、こんなこともあろうかと予め用意しておいたデザートのソースとして再利用している、そんな印象が強い。そういう意味では、この映画自体が全身義体のサイボーグみたいなものだ。

というわけで、そこらのへんの要素をこの映画に期待している人がいたら案外、肩透かしを食らうかもしれない。あくまでも、シーンの再現に留めているところが、この映画の良いところでも悪いところでもある。そう考えると、攻殻機動隊という作品群が歩んできた軌跡と立ち位置も含めて、やはりこの映画は奇妙だといえるのかもしれない。

 

久々に映画を観て悶々としてしまい、今回は変なことばかり書いてしまいましたが、スカーレット・ヨハンソンビートたけしを観に行くだけでも十分観に行く価値あります。別にフォローとかなんでもなく、時間的経済的余裕のある人は是非、映画館に足を運んでみてくださいな。

映画「偽りなき者」 他人を信じるな。疑うことを疑え

「Hideo Tube(ヒデチュー)」第六回で紹介されていた映画「偽りなき者」の感想記事です。直接的なネタバレは避けていますが、できることなら鑑賞後推奨。

 

 小島監督の推しっぷりが尋常ではなかったので、気になって気になってようやく鑑賞。なるほど、万人受けするタイプの映画ではないけれども、あの「ミスト」を越える胸糞っぷり&ラスト二重のどんでん返しは映画ファンならば必見。もちろん、それだけでは終わらないのがこの「偽りなき者」。この問題について一人でも多くの人に考えてもらいたい、と布教の衝動に駆られるそんなタイプの作品。

 

 監督はトマス・ヴィンターベア。主演はマッツ・ミケルセン。ちなみに彼はこの作品でカンヌ国際映画祭の男優賞を受賞したとのこと。

 

 

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 目の前の嫌な現実から逃避するための映画。大笑いして、涙を流し、今この瞬間を忘れ去る映画。そのあまりのくだらなさ故に、次の日の朝にはどんな内容だったのか思い出すことも難しい映画。世の中はそのようなエンタメ系映画で溢れている。


 そんな映画たちを、こよなく愛するあなたは、日曜日の昼下がりにふとレンタルビデオ店に立ち寄り、意気揚々と自宅に戻る。ふかふかのソファの上でだらしない姿勢のままこの映画を観始め、そして、開始三十分もしないうちに心底不快な気持ちに陥るのだ。


 不意打ちを食らうのも流石に気の毒なので、先に宣言しておきたいと思う。

 この映画に、嫌な現実を吹き飛ばす痛快さを期待してはいけない。鬱憤を解放したときに生じるカタルシスなど以ての外だ。そんなものは犬にでも喰わせてしまえと、この映画はそんな楽観的な態度で構えていた鑑賞者に背後からドロップキックをくらわせ、本気で食い物にしてしまう。

 

 ここに記録されているのは、悪意の発生とその軌跡だ。制御不能の悪意は、まるで自然災害のように、辺り一帯を蹂躙し、何一つ恩恵をもたらすことのないまま身勝手に消滅していく。現場に残されるのは、修復不能の傷痕と、それによって撒かれた新たなる悪意の種だ。

 

 「偽りなき者」を観終えた後、あなたはモヤモヤした気分に囚われるかもしれない。というのも、この映画は、人々の「悪意」について語りこそするものの、それを回避する手法や打開策については一切提言してくれないのだ。人という醜悪な存在に対する僅かな希望を容赦なく潰しにかかってくる「衝撃のラストシーン」を観る限り、親切さとは真逆の印象を受けるだろう。円満な解決法など世の中には存在しない、そういった厭世観を、あなたはこの映画から感じ取るかもしれない。

 

 一見、この映画は「我々はこのような悪意について、どのように対峙すればよいのか」そういった問題について解決を放棄しまっているように思える。・・・・・・しかし、どうだろう。人の気分を不快にさせる、たったそれだけの目的のために、この映画が作られたというのは、流石に考えにくい。というか、考えたくない。なので、もっと別の思惑があるのではないかと疑ってみることにする。そう、例えば、この映画は答えを出せなかったのではなく、あえて答えを出さなかったのだ、とか。


 悪意の対処法について安易な解決を導き出さなかった理由――もっと噛み砕いた表現をするならば「もっとこういう風に生きたら人生楽しくなるんじゃない?」といったエンタメ系映画にありがちな提案を良しとはしなかった理由――それは、「偽りなき者」で描かれる「悪意」の問題について、観客一人独りがそれぞれ一生を賭けて向き合わなければいけない問題であると、そう訴えているからではないだろうか。


 何をすれば正解なのか、世の中にそんなわかりきった正解は存在しない。小学校の計算ドリルのように、ページの最後に答えがくっついていることなんてことはまずあり得ない。


 たった一つの冴えたやり方、絶対無敵の攻略法がもし仮に存在するのだとしたら、それは「悪意」ついて人々が真剣に向き合い、それぞれが正解を探し求める、ということなのだろう。だからこそ、この映画は「答えを提示する」ではなく「観客全員に投げかける」という手法を選んだのだ。

 

 予め用意された答えに従うだけでは駄目だ。それでは、ルーカスに石を投げた連中と変わらない。何が正解で何が間違っているのか、自分で導き出した答えにこそ価値がある。他人を信じるな。疑うことを疑ってみなければ、この映画と同じ結末を辿ることになる。ハッピーエンドに辿り着くことなど夢のまた夢だ。


 もしあなたが思考することを億劫だと感じるならば、この映画は退屈にしか映らないかもしれない。それは当然のことだ。この映画は「思考停止」する者を徹底的に拒み、忌み嫌っている。「思考停止」こそ諸悪の根源であり、自らの考えをもたずに集団の意思に流されること、それこそ「悪意」が生まれる瞬間なのだ。

 

「キングコング: 髑髏島の巨神」 弱肉強食では語れない強さ


 この映画に弱肉強食というフレーズはあまりしっくりこない。神に見放された存在から消えていく、という方向性で観たほうが色々と納得できる内容だと思った。というのも、純粋な強さ比べをさせるならば、コングに知性を備えた闘い方をさせるべきではなかったし、知性まで含めて弱肉強食だと主張するなら、今度は、人間側の振る舞いに疑問が生じてくる。


 怪物たちもひっくるめ、この映画の登場人物たちは、神に見放された者から脱落していく。たしかに、サバイバルにおいて強さという指標は重要だ。しかし、それ以上に運が無ければ生き残れない。本作はその事実を強く意識しているのだと、個人的には感じた。


 一番わかりやすい例で言えば、髑髏島に住む人間の部族だ。彼らは島の守護者であるコングを絶対的な神として崇めている。神に見放された瞬間、彼らを出迎えるのはスカルクローラーの大顎とリバーデビルの巨大な脚、つまり、絶対的な死だ。部族の存在それ自体が、信仰と死の関係性を強調している。


 ところで、髑髏島の住民たちは言葉を持たなかった。これはおそらく、神(コング)とのコミュニケーションに言葉は不要、ということなのだろう。コングはある程度の知性を備えているが一方で言葉をもたない。住民たちは自身の正当性を、非言語コミュニケーション、つまり、態度や行動で示さなくてはいけないのだ。そういう意味で、ブリー・ラーソンがコングの目の前でヘリコプターの下敷きになったバッファローを助けたのは、全滅エンド回避に導くファインプレーだった。逆にアレがなければ全員、コングに惨殺されて終了という展開も考えられたのだろう。いや、流石にないか。


 それにしても何から何までスケールのデカイ神である。機銃の一斉掃射を受け深手を負ったにもかかわらず、島の野生動物一匹助けただけで赦しを与え、オマケに生命保険まで付けるとは。なるほど、この神は器までデカイ。


 コングと島の住民たちが声のなき信頼関係を築き上げる一方、やたらと会話する癖に結束力ゼロという悲しき存在、それが我ら人間である。 周囲の説得に対して、まったく聞く耳を持たないサミュエル・L・ジャクソン。見事なまでに死亡フラグを乱立させる彼が、一体いつ血飛沫を上げるのか。もはや恒例となった「マザーファック」の台詞と併せて、待ちわびた観客は数知れない。


 今思えば、大佐のパッカード大佐率いる部隊の敗北は、物語開始時点で既に決定していたのかもしれない。今回、舞台の背景となったベトナム戦争は、アメリカの無敗神話に唯一傷を付けた戦争でもある。敗戦の記憶を引き摺る彼らは、コング討伐で仲間の無念を晴らそうと意気込む。しかし残念なことに、勝利の女神に見放された状態では、その結果は見えている。

 

 

 本題に戻ろう。この物語の軸が弱肉強食ではないと思う最大の理由は、キングコングとスカルクローラーの決戦シーンにある。ラストの闘いは、正直どちらが勝利しても違和感がないほど拮抗していた。人間側を味方につけたのがコングの勝因という仮説もイマイチ納得できない。ブリー・ラーソンを救出しようとしてコングは窮地に陥っているし、勝敗を分けるキーにはなっていないはずだ。

 

 では結局、何が勝敗を分けたのか。暴力や知力では図れない領域で勝敗が決するとしたら、それは運以外に考えられない。コングがスカルクローラーに勝利できた最大のポイントは、映画の神――つまり、監督に愛されていたことだろう。コングが勝利できたのは、コングが勝つと監督が決定したからである。


 身も蓋もない話になってしまったが、この映画はそういう理屈が通用する、あるいは、通用してもいいと思わせてくれる、そんな映像体験を提供してくれる。


 今作はエンドロールで伏線が張られ、続編の可能性が仄めかされていた。キングギドラゴジラが登場するようだが関係ない。ネタバレしよう。次もコングが勝つ。コングが監督という映画の神に見放されない存在であり続ける限り、コングは常に勝利し続けるのだ。

ストーリー理解を深めたい人向けの「ひるね姫」解説

 

 神山健治監督作品「ひるね姫」のストーリーがよくわからなかった人向けの解説記事。非常に完成度の高い作品なので、もっと理解を深めたいという人は是非、この記事に目を通して欲しい。

 

アーサー・C・クラークが定義したクラークの三法則の「高度に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」という言葉をヒントにした「いつも描いているテクノロジーを魔法に置き換えてみよう」という発想でした。

社会の大きな問題と切り結ばない作品を作る意味はあるのか、神山健治監督が「ひるね姫」に込めたものとは? - GIGAZINE

 

GIGAZINEインタビューでの神山監督の発言を抜粋。


 今回の「ひるね姫」の内容はとにかくこれに限る。現実と夢が入り混じる曖昧な世界で、神山監督が何を描きたかったものとは何か? 結局のところそれは、過去においては空想の産物でしかなかったテクノロジーの数々が、既に現実のものになりつつあるということなのかもしれない。

 

・なぜロボットが登場するのか

 夢の中で、全自動運転技術の代替として活躍するエンジンヘッド。その造形はなんというか某アニメに登場するそれを彷彿とさせる。

 アニメで見かけるいかにもな感じの巨大ロボと、最近ニュースでも話題になっている全自動運転車、実をいうとこの二つには大きな共通点がある。両者ともハードウェアとソフトウェア、さらに言えば操縦士、この三つが揃った時点で、ようやく真っ当に機能するという点だ。

 

神山監督の師匠ともいえる押井守監督。その代表作の一つに「機動警察パトレイバー the Movie(以下劇パト1)」が挙げられる。

 

本作はロボットアニメとしては“リアルロボット系”に属する。しかし、従来的な巨大ロボットものにおけるような「異世界からやって来た様な」「遥か未来を想像した」ものではなく、「現実の20世紀中に存在した技術からさして遠くない世代の工業生産品」としてのロボデザインが従来作品と一線を画する点である。そのため、それまでの巨大ロボットアニメが描いてきた「スーパーヒーローと悪の戦い」あるいは「戦争」等のような現代日本人にとっての“非日常”ではなく、現実の“日常”に自然に巨大ロボットが溶け込んだ情景描写が、強いリアリティをもっている。

機動警察パトレイバー | 機動警察パトレイバー Wiki | Fandom powered by Wikia

 

 パトレイバーの企画コンセプトは「実社会に適応した巨大ロボットを生み出す」というものだった。もちろん、フィクション上でしか成立しない巨大ロボットという存在をリアルに落とし込むには、それなりの工夫が必要になる。その工夫の一つが、巨大ロボットを制御するためのソフトウェア、つまり、オペレーティングシステムを導入するというアイディアだった。


 「劇パト1」では、機体(ハードウェア)に搭載されたOS(ソフトウェア)が制御不能な状態に陥ってしまったらどうなるのか、という問題について触れている。「劇パト1」が公開されたのは1989年。1996年にインターネットが誕生し、そこでようやく世間一般にコンピューターが普及し始めたことを考慮に入れると、「ロボットにOSを導入する」というアイディアがいかに時代を先取りしたものだったのか想像するのは難しくない。また、逆の見方をすれば、コンピューターも無い時代に「巨大ロボットにオペレーティングシステムを搭載する」という発想が生まれたというのは、それくらい違和感のないごく自然な論理展開だったのだろう。


 しかし、とはいったものの、やはりフィクションというのは、どこまでいってもフィクションでしかない。「巨大ロボットにオペレーティングシステムを搭載する」という発想が、いかにリアリティのある設定だったとしても、所詮、巨大ロボットというのは妄想の産物に過ぎないのだ。そもそも話、「実社会で生きるロボットを作る」というコンセプト自体、矛盾の塊みたいなものであり、どうやったって巨大ロボットなんて馬鹿げた夢は実現しようがない。

・・・・・・少なくとも、ついこの間までなら、そのようなことも言えたのかもしれない。

 

  あれから二十八年、当時では考えられないようなテクノロジーがいくつも誕生した。コンピューター、インターネット、携帯電話、スマートフォンクラウド、最近の話題に限れば、人工知能ビッグデータ、そして、IoT。全自動車技術もそのうちの一つだ。それまで人の感覚に頼らなければいけなかった操作を、コンピューターに一任するという奇抜な発想。言うまでもなくそれはハードとソフトの融合に他ならない。


 ハードウェアとソフトウェアと操縦士、この三位一体の関係性は、エンジンヘッドと全自動運転車、そのどちらの技術にも当てはまる。二十七年前では「夢」に過ぎなかった巨大ロボット技術、それと同じコンセプトで動くマシンが完成に近づいているという事実。正直これは驚くべきことではないだろうか。
 演出の都合上、ココネの夢にロボットが出現した。無論それだけではない。全自動運転車と巨大ロボットの関係性、これに気付くことでようやく「ひるね姫」にロボットが登場した理由について考察できるのだろう。

 

・ココネはなぜ夢を見るのか

 夢と現実が入り混じる「ひるね姫」の世界観に混乱したという人も少なくないかもしれない。「夢パート必要だった?」なんて感じてしまった人も中にはいるだろう。しかし、やはりというかそれはナンセンスなツッコミだ。なぜかといえば、夢と現実の区別がつかない世界に我々は生きているということ、そして、今我々の生きる現実が夢に近づいていること、これこそ「ひるね姫」という作品が目指した終着点だったからだ。


 物語序盤、主人公のココネが見る夢は彼女だけが知る夢でしかない。夢の中で彼女は自由だ。空想の世界のお姫様エンシェンとして、やりたい放題好き勝手に遊んでいる。

 しかし、物語が進むにつれて、その夢が現実世界に影響をもたらすという事実が判明する。夢の中で起きたことが今度は現実世界にも反映されるようになり、さらに、その夢を他人と共有できる、という事実まで明らかになる。自動運転で大阪へ移動してしまった後、怪しい人物に狙われていることに気付いたココネの幼馴染みモリオが「今すぐ夢を見ろ!」なんてココネに信じられないような台詞を吐くシーンがあるが、あれはココネの夢が現実に対してそれほど強い影響力があるということを示唆しているのだろう。(いや、単なるギャグシーンか)


 新幹線で居眠りするシーンで、ココネの夢は母親の記憶に纏わるものだということが判明。これも重要なシーンだといえる。その夢が誰のものなのかという問題は、誰の夢が現実に反映されているのかという疑問に直結するからだ。ココネの母親は全自動車技術の開発者だった。つまり、夢とは全自動車技術の実現を指しているのである。


 最終的にココネの夢は、登場人物たち全員が共有するような大きなものへと変貌していく。序盤から中盤にかけては現実と夢が交互に描かれていたのに対し、クライマックスではもはや夢と現実の区別がつかなくなっていく。この変化は一体、何を意味しているのか? そう、答えは簡単だ。夢が現実に成り代わるということ、イコールそれは夢が叶うということだ。ココネの見た夢は、ココネの母親が見た夢だった。その夢が叶うということは、全自動車技術の実現を願った彼女の夢が、現実に反映されたということを意味している。


 最後にもう一つ。ココネの母親が見た夢は、いつの間にか全員の夢になっていた。多くの人と未来のビジョンを共有すること、もしそれが夢を叶える(夢を現実にする)ための条件だというのなら、物語が進むにつれて夢の規模が大きくなった理由も、なんとなく察しがつくだろう。

 

・高度に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない

 全自動運転技術を技術的革新と捉えるか、あるいは大した技術ではないと判断するか、それは人それぞれだろう。しかしながら、過去のある時点において、あらゆる技術はすべて革新的なものだった。旧石器時代から見つめればマッチは大した発明品だし、中世時代からしたら宇宙ロケットなんて信じられないような発明だろう。


 もし「巨大ロボットなんて作れない」と断言する輩がいれば、それは嘘だと教えてあげるといい。どんな果てしない未来の技術も、常に現実の技術の延長線上にある。巨大ロボット技術は全自動運転技術の延長線上にあったように、未来の可能性というのも今この瞬間と連続的に繋がっている。

 

 「高度に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」

 

 アーサー・C・クラークはクラーク三原則でそのように言い遺した。もし、どんな夢も叶うのだとしたら、我々はいつか魔法の世界で生きることになるのだろう。少なくとも、我々の生きる現実は「魔法の世界」、言い換えれば「夢」に向かって着実に進んでいるのだ。