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意味があれば気にしないですむ

ジャンル問わずフィクションの批評、解説やってます

ストーリー理解を深めたい人向けの「ひるね姫」解説

映画 アニメ

 

 神山健治監督作品「ひるね姫」のストーリーがよくわからなかった人向けの解説記事。非常に完成度の高い作品なので、もっと理解を深めたいという人は是非、この記事に目を通して欲しい。

 

アーサー・C・クラークが定義したクラークの三法則の「高度に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」という言葉をヒントにした「いつも描いているテクノロジーを魔法に置き換えてみよう」という発想でした。

社会の大きな問題と切り結ばない作品を作る意味はあるのか、神山健治監督が「ひるね姫」に込めたものとは? - GIGAZINE

 

GIGAZINEインタビューでの神山監督の発言を抜粋。


 今回の「ひるね姫」の内容はとにかくこれに限る。現実と夢が入り混じる曖昧な世界で、神山監督が何を描きたかったものとは何か? 結局のところそれは、過去においては空想の産物でしかなかったテクノロジーの数々が、既に現実のものになりつつあるということなのかもしれない。

 

・なぜロボットが登場するのか

 夢の中で、全自動運転技術の代替として活躍するエンジンヘッド。その造形はなんというか某アニメに登場するそれを彷彿とさせる。

 アニメで見かけるいかにもな感じの巨大ロボと、最近ニュースでも話題になっている全自動運転車、実をいうとこの二つには大きな共通点がある。両者ともハードウェアとソフトウェア、さらに言えば操縦士、この三つが揃った時点で、ようやく真っ当に機能するという点だ。

 

神山監督の師匠ともいえる押井守監督。その代表作の一つに「機動警察パトレイバー the Movie(以下劇パト1)」が挙げられる。

 

本作はロボットアニメとしては“リアルロボット系”に属する。しかし、従来的な巨大ロボットものにおけるような「異世界からやって来た様な」「遥か未来を想像した」ものではなく、「現実の20世紀中に存在した技術からさして遠くない世代の工業生産品」としてのロボデザインが従来作品と一線を画する点である。そのため、それまでの巨大ロボットアニメが描いてきた「スーパーヒーローと悪の戦い」あるいは「戦争」等のような現代日本人にとっての“非日常”ではなく、現実の“日常”に自然に巨大ロボットが溶け込んだ情景描写が、強いリアリティをもっている。

機動警察パトレイバー | 機動警察パトレイバー Wiki | Fandom powered by Wikia

 

 パトレイバーの企画コンセプトは「実社会に適応した巨大ロボットを生み出す」というものだった。もちろん、フィクション上でしか成立しない巨大ロボットという存在をリアルに落とし込むには、それなりの工夫が必要になる。その工夫の一つが、巨大ロボットを制御するためのソフトウェア、つまり、オペレーティングシステムを導入するというアイディアだった。


 「劇パト1」では、機体(ハードウェア)に搭載されたOS(ソフトウェア)が制御不能な状態に陥ってしまったらどうなるのか、という問題について触れている。「劇パト1」が公開されたのは1989年。1996年にインターネットが誕生し、そこでようやく世間一般にコンピューターが普及し始めたことを考慮に入れると、「ロボットにOSを導入する」というアイディアがいかに時代を先取りしたものだったのか想像するのは難しくない。また、逆の見方をすれば、コンピューターも無い時代に「巨大ロボットにオペレーティングシステムを搭載する」という発想が生まれたというのは、それくらい違和感のないごく自然な論理展開だったのだろう。


 しかし、とはいったものの、やはりフィクションというのは、どこまでいってもフィクションでしかない。「巨大ロボットにオペレーティングシステムを搭載する」という発想が、いかにリアリティのある設定だったとしても、所詮、巨大ロボットというのは妄想の産物に過ぎないのだ。そもそも話、「実社会で生きるロボットを作る」というコンセプト自体、矛盾の塊みたいなものであり、どうやったって巨大ロボットなんて馬鹿げた夢は実現しようがない。

・・・・・・少なくとも、ついこの間までなら、そのようなことも言えたのかもしれない。

 

  あれから二十八年、当時では考えられないようなテクノロジーがいくつも誕生した。コンピューター、インターネット、携帯電話、スマートフォンクラウド、最近の話題に限れば、人工知能ビッグデータ、そして、IoT。全自動車技術もそのうちの一つだ。それまで人の感覚に頼らなければいけなかった操作を、コンピューターに一任するという奇抜な発想。言うまでもなくそれはハードとソフトの融合に他ならない。


 ハードウェアとソフトウェアと操縦士、この三位一体の関係性は、エンジンヘッドと全自動運転車、そのどちらの技術にも当てはまる。二十七年前では「夢」に過ぎなかった巨大ロボット技術、それと同じコンセプトで動くマシンが完成に近づいているという事実。正直これは驚くべきことではないだろうか。
 演出の都合上、ココネの夢にロボットが出現した。無論それだけではない。全自動運転車と巨大ロボットの関係性、これに気付くことでようやく「ひるね姫」にロボットが登場した理由について考察できるのだろう。

 

・ココネはなぜ夢を見るのか

 夢と現実が入り混じる「ひるね姫」の世界観に混乱したという人も少なくないかもしれない。「夢パート必要だった?」なんて感じてしまった人も中にはいるだろう。しかし、やはりというかそれはナンセンスなツッコミだ。なぜかといえば、夢と現実の区別がつかない世界に我々は生きているということ、そして、今我々の生きる現実が夢に近づいていること、これこそ「ひるね姫」という作品が目指した終着点だったからだ。


 物語序盤、主人公のココネが見る夢は彼女だけが知る夢でしかない。夢の中で彼女は自由だ。空想の世界のお姫様エンシェンとして、やりたい放題好き勝手に遊んでいる。

 しかし、物語が進むにつれて、その夢が現実世界に影響をもたらすという事実が判明する。夢の中で起きたことが今度は現実世界にも反映されるようになり、さらに、その夢を他人と共有できる、という事実まで明らかになる。自動運転で大阪へ移動してしまった後、怪しい人物に狙われていることに気付いたココネの幼馴染みモリオが「今すぐ夢を見ろ!」なんてココネに信じられないような台詞を吐くシーンがあるが、あれはココネの夢が現実に対してそれほど強い影響力があるということを示唆しているのだろう。(いや、単なるギャグシーンか)


 新幹線で居眠りするシーンで、ココネの夢は母親の記憶に纏わるものだということが判明。これも重要なシーンだといえる。その夢が誰のものなのかという問題は、誰の夢が現実に反映されているのかという疑問に直結するからだ。ココネの母親は全自動車技術の開発者だった。つまり、夢とは全自動車技術の実現を指しているのである。


 最終的にココネの夢は、登場人物たち全員が共有するような大きなものへと変貌していく。序盤から中盤にかけては現実と夢が交互に描かれていたのに対し、クライマックスではもはや夢と現実の区別がつかなくなっていく。この変化は一体、何を意味しているのか? そう、答えは簡単だ。夢が現実に成り代わるということ、イコールそれは夢が叶うということだ。ココネの見た夢は、ココネの母親が見た夢だった。その夢が叶うということは、全自動車技術の実現を願った彼女の夢が、現実に反映されたということを意味している。


 最後にもう一つ。ココネの母親が見た夢は、いつの間にか全員の夢になっていた。多くの人と未来のビジョンを共有すること、もしそれが夢を叶える(夢を現実にする)ための条件だというのなら、物語が進むにつれて夢の規模が大きくなった理由も、なんとなく察しがつくだろう。

 

・高度に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない

 全自動運転技術を技術的革新と捉えるか、あるいは大した技術ではないと判断するか、それは人それぞれだろう。しかしながら、過去のある時点において、あらゆる技術はすべて革新的なものだった。旧石器時代から見つめればマッチは大した発明品だし、中世時代からしたら宇宙ロケットなんて信じられないような発明だろう。


 もし「巨大ロボットなんて作れない」と断言する輩がいれば、それは嘘だと教えてあげるといい。どんな果てしない未来の技術も、常に現実の技術の延長線上にある。巨大ロボット技術は全自動運転技術の延長線上にあったように、未来の可能性というのも今この瞬間と連続的に繋がっている。

 

 「高度に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」

 

 アーサー・C・クラークはクラーク三原則でそのように言い遺した。もし、どんな夢も叶うのだとしたら、我々はいつか魔法の世界で生きることになるのだろう。少なくとも、我々の生きる現実は「魔法の世界」、言い換えれば「夢」に向かって着実に進んでいるのだ。

「ラ・ラ・ランド」 渋滞に鳴り響くクラクション

映画


 最近観た映画の中でいえば、「ラ・ラ・ランド」は断トツにわかりやすかった。
 夢を追い求める者ならば誰しも、何を貫き何を犠牲にするか、その問題にはまず間違いなく直面する。なぜならば、人は夢を追うだけでは生きていけないからだ。世間を無視する行動をとり続ければ、それだけ周囲との軋轢が生まれる。夢を追うこと、それは犠牲を選択することと等しいともいえるのだろう。

 

 ストーリーは単純明快。それでも、どうしても引っ掛かるポイントがひとつだけあった。何かというとそれは、ロサンゼルスのハイウェイで人々が一斉に踊り出すシーン。あまりにも鮮烈なオープニングに、心を奪わた観客も少なくはないだろう。
 猛烈な違和感を覚えた理由、それは一つだ。なぜ、彼らは何の脈絡もなく踊り出したのか、その意図がどうしても掴めなかった。彼らは一体何者で、なぜ急に踊り出したのか。物語が中盤に差し掛かっても、その謎は一向に明かされないままだった。


 そもそもの話、ミュージカル映画では、こちらがビックリするようなタイミングで歌い出すことが多い。わけのわからないタイミングで曲をぶっ込んでくる、それ自体は珍しくない。

kindantheatre.com


 登場人物の心境を歌として表現するのがミュージカル、ということであれば、歌は感情表現の延長線上にあるということになる。もしその感情が何の前触れもなく爆発したとき、観客は登場人物たちの心境を理解できないまま歌を聴かされることになる。ミュージカル映画を鑑賞する観客が「置いてきぼりにされた」と感じるのは、まさにこの瞬間だろう。


 さて、ハイウェイのシーンはどうだったのか、もう一度考えてみたい。感情の発露により彼らが踊り狂ったというのは、まあ納得できなくもないが、結局彼らが何者だったのかという問題は一向に解決しない。歌うという行為が登場人物たちの心境を汲み取るのに一役買ってくれれば良いのだが、なぜ彼らが楽しそうだったのかは、結局のところわからない。


 「ラ・ラ・ランド」全体から観ても、このシーンは異色であったように感じる。冒頭にも記したとおり「ラ・ラ・ランド」の魅力の一つに「わかりやすさ」というものがあった。たとえ40年代から50年代の伝統的なジャズに詳しくなくても、現実や夢に浸るロマンチシズムというものには誰もが共感できる。世間から理解されない苦しみ、そういったものを題材にする一方で、「ラ・ラ・ランド」は不理解による「わかりにくさ」を徹底的に排除した作品だった。そしてそれはミュージカル映画という性質に対しても存分に発揮されていたように感じる。
 というのもハイウェイ以外のミュージカルシーンでは常に「流れ」というものを意識していたはずだった。パーティーに出掛けるとき(Someone in the Crowd)、セブとミアが恋に落ちた瞬間(A Lovely Night)、オーディションの最中(The Fools Who Dream)などなど。これらすべてのシーンには、いつ曲が流れてもおかしくない、そんな雰囲気に包まれていた。感情の変化が物語によって十分描かれていたため、彼らの感情の昂ぶりに対してそこまでの違和感を覚えることはなかった。


 ハイウェイのシーンの違和感を存分に感じ取ってもらったところで、ハイこれでお終い、というのも流石に歯切れが悪い。ということで、結局あのシーン何だったのかということについてもう少し掘り下げてみたい。
 キーワードは「渋滞」だ。この映画で渋滞シーンに遭遇するタイミングは二回ある。一度目はいうまでもなくオープニングシーン、そして二度目は、ラストシーン。
ハリウッドで女優として大成したミアは、夫とのドライブの途中で渋滞に捕まる。このとき、脇道に逸れることで彼女は難なく渋滞を回避する。
 渋滞を抜けたのは、彼女がハリウッドで大成したことのメタファーである。渋滞を抜けた=夢を叶えたという事実を意味しているのだ。その証拠として、渋滞を越えた先には、彼女と同じく長年の夢を叶えたセブが待機している。
 さて、既にご理解いただけたと思うが、一応説明しておきたい。冒頭の渋滞シーンで踊っていたのは、それぞれの夢を追うロマンチストたちだった。渋滞というのは夢が叶うその瞬間を待たされ続けていることを意味し、さらに、彼らが愉快そうな表情を浮かべて「 Another Day of Sun 」を歌い出すのは、いくら困難な状況に直面しても、それを乗り越えられる夢をもっているから、ということに他ならなかった。


 ちなみに、渋滞に紐付くメタファーはもう一つある。それはサブの車が鳴らすクラクション音だ。あの耳障りな騒音は、作中でも周囲から度々疎まれているいるが、唯一、同じく夢を共有するミアにとっては騒音ではなくなっている。冒頭の渋滞シーンでは、クラクションに暴言を吐くが、その後、セブと親密な関係を築き上げていくにつれ、騒音はお互いの居場所を知らせるためのツールとして描かれるようになっていく。理想を追い求めるその姿は周囲にとっては単に鬱陶しいものでしかないのかもしれない。しかし、二人にとってはまさにそれこそお互いを引き寄せ結びつける強い絆になるのだ。

音を大事にしているミュージカル映画にとって、クラクションのような煩わしい音は、本来であれば、マイナスの意味をもつ記号になるのかもしれない。しかし、「ラ・ラ・ランド」ではこのクラクション音を否定もしなければ、肯定もしなかった。あくまでも一歩引いた目線で、二人の幸福を見守り、その鬱陶しさを遠回しなやり方で表現したのである。単に二人の恋路と夢だけを追うロマンチズムに溢れた映画であれば、冒頭シーンでクラクションが鳴り響くことは、まずあり得なかっただろう。


 というわけで、今回は「ラ・ラ・ランド」のメタファーを追ってみた。一見、わかりやすいストーリーであっても、隠し要素があることが多く、そういう意味で物語というのは、やはり侮れない。

「ラ・ラ・ランド」を観てきたのでアカデミー賞の話

映画

業界人ウケする映画というのがこの世の中には一定数存在する。今年、アカデミー賞最多六部門を受賞した「ラ・ラ・ランド」もそういった類いの作品の一つだろう。

この映画を観た人ならば、容易に想像できると思う。というのも、ハリウッドの第一線で活躍するような業界人というのは、少なくとも人生で一度は、この映画の登場人物たちと似たような葛藤を経験をしたはずだ。明日食べていけるのかどうかもわからない残酷な世界に身を投じ、夢に憧れ、酔い、迷い、嘆き、そういった苦悩の末、最終的に流れ着いた場所がハリウッドのスポットライトの下であり、今の彼らの地位なのだ。

彼らの心のうちには「この作品には賞を与えなくちゃいけない」といったある種の使命感のようなものが働いているはずだ。映画好きに好かれるタイプの映画、映画好きなら評価しなければいけないタイプの映画、なんてそのような表現が適切かもしれない。

 

もちろん、それが駄目なんて言うつもりはない。「そうやってすぐ内輪ネタに走るから今の映画はくだらない」なんて、馬鹿丸出しの批判をするつもりもない。

そもそもの話、アカデミー賞というのは、アメリカ映画芸術科学アカデミーという名前の業界団体が決定する賞、つまり、業界人が業界人のために作った業界人のための賞のことだ。したがって、業界人たちが評価する映画が入賞するというのは、至極当然のことで、その事実も知らずに「アカデミー賞も落ちぶれたな」なんて指摘するのは見当外れもいいところだ。

また逆も然り。アカデミー賞を獲った=この映画は面白い、という方程式が必ずしも成り立つとは限らない。いくら映画好きに評価されたところで、その映画が万人ウケするかどうかは、やはり別の問題だ。そういう意味で、友人にオススメの映画を聞かれたとき、アカデミー賞受賞作品をチョイスするのは些か早計かもしれない。

 

遠回しな説明になってしまった気がする。閑話休題。話を戻そう。

この映画がアカデミー賞を獲れた理由は明白だ。ラ・ラ・ランドまさに映画好きのための映画だった。さらに言えば、他映画へのリスペクトもあるし、金はかかってるし、画も華やかだし、熱もあるし、おまけに夢までついてくる。

至れり尽くせりとはまさにこのことだろう。しかし、だからこそ同時にそこが弱点になるとも思うのだ。要するに隙がない。隙がないからこそ、この作品は手放しに褒めてしまえる。

 

超超超超当たり前のことだが、絶対的な評価なんてものは存在しない。絶対的な面白さというのも、この世のどこにもない。結局のところ、物語のテーマというのは個人の価値観や経験に根付くものだ。そこに気付かず、作品を手放しに褒めてしまうと、批評や感想というのは途端に面白くなくなる。そんな気がしてならないのだ。

 

結果的に、負け惜しみみたいな感想になってしまったが、今回話した「隙」のような話は、作品を語る上でかなり重要な部分になると個人的には考えている。「隙」とは作品の弱点のようなものだ。結局のところ、この「隙」を含めて作品を許容できるかという論争が、その作品を本当の意味で受け入れられるかという問題に繋がってくるのだと思う。 

・・・・・・「ラ・ラ・ランド」本編の感想はまた今度。

映画「虐殺器官」 ツッコミ不在の恐怖に、君は抗えるか

映画 アニメ 小説

 

※原作「虐殺器官」を読んだ人向けの記事です。

 

 虐殺器官という小説を一つのブラックコメディとして捉えている人は意外と少ないかもしれない。

 自分にとって虐殺器官とは、最高に下品でなおかつグロテスクな形をしたブラックコメディだった。もし間違って吹き出したりでもした瞬間、周囲から不謹慎だと罵られるようなそんな質の悪いタイプの冗談。でも、そういった世間の凝り固まった生真面目な雰囲気すら、この小説はさらに笑いを助長させるためのスパイスとして転化してしまう。そんな悪意の塊のようで、しかしながら完全には否定できないそんなリアリティのあるところが、虐殺器官の魅力の一つだったように、今となって思う。

 

d.hatena.ne.jp

 

 物語終盤の独白、主人公のクラヴィス・シェパード大尉(以下、大尉)がある嘘を付いている可能性が仄めかされている。というか十中八九、主人公の台詞は嘘だ。そのように断言できる。

 

 

anond.hatelabo.jp

 

※この記事の続きを読むにあたって、虐殺器官の「大嘘」は死ぬほど重要な話なので、百万回読み直して欲しい。この「大嘘」について内容を把握できないと、これから先の話は、ほとんど意味不明(時間の無駄)になると思うでご注意を。

 

 

 

 ・・・・・・読みましたね?知りませんよ

 

 「大嘘」でも指摘されているように、クラヴィスは、米国を除く全世界のために米国国内で虐殺の文法を発動させたわけではなかった。精神世界型の敵である彼は、目の前(あるいは世界中)に屍者の光景を再現しようとした、というのが事の真相だろう。

 

 貴様ら拝金主義者と一緒にするな」狂信者の罵倒は聞き飽きていた。狂信のかたちは宗派に拠らない。どこにあっても似たり寄ったり。どんな戦場でも、どんな悲惨でも、同じような人間が同じようなことを言う。コメディ番組みたいだ、とウィリアムズはぞっとするほど朗らかな声で笑った。繰り返しはギャグの基本だからな、とつけ加える。(p.209)

 

 映画版でもウィリアムズが全く同じ台詞を呟いていたのを思い出してもらいたい。要するに、これと同じことを主人公クラヴィスはラストで繰り返したのだ。

 

  ぼくは罪を背負うことにした。ぼくは自分を罰することにした。世界にとって危険な、 アメリカという火種を虐殺の坩堝に放りこむことにした。アメリカ以外のすべての国を 救うために、歯を嚙んで、同胞国民をホッブス的な混沌に突き落とすことにした。とても辛い決断だ。だが、ぼくはその決断を背負おうと思う。(p.281)

 

 「とても辛い決断だ」なんて台詞は、実は真っ赤な大嘘で、本当は末尾に(笑)を付けてやるべきなのだ。それっぽい適当な言い訳を繕って、シェパード大尉は米国を混沌に陥れた。世界中のあらゆるテロリストたちと同じように「正義」のための虐殺を敢行した。

 

 「ギャグの基本は繰り返しだからな」とは原作でのウィリアムズの発言。つまり、この繰り返しも当然、ギャグの文法ということになる。エピローグでの一連の流れがギャグとして用いられているのは、まず間違いないだろう。

 

(解説厨を自称する作者が、これを説明しようとしなかった理由はなんとなくわかる。読者の解釈の幅を狭めてしまうという理由もあると思う。・・・・・・が、一番は

「はい、皆さん。実はここ笑うところなんですよ~」
なんて宣言されたら、いくら笑えるシーンでも笑えなくなってしまう。というかそれ、この記事にも当てはまることなのだが。むむむ。)

 

 

 さて、本題に戻ろう。映画の虐殺器官はどうだったか。
 ツッコミ不在の恐怖とはまさにこのことだろう。いや、むしろここまで徹底されていると意図的に排除された、そんな可能性すら視野に入れなくてはいけない。
 映画版と小説版の最大の違いは、主人公が死者の光景について興味を抱いてないという点だ。母親の死を選択する病院のシーンは総カット。映画版のクラヴィス・シェパードはアレックスの死に直接的に関与したにもかかわらず、その死について考えを巡らす描写は一切なかった。


 これらの描写の有無が、物語の結末の解釈に大きな影響を及ぼすことは明白だ。なぜなら、原作小説においては、クラヴィスが死者の光景について関心を持っているということが、米国国内で虐殺の文法を発動させるための前提条件だったからだ。


 死者という存在に対する興味関心がすっぽ抜けてしまっている以上、クラヴィス大尉は自らの「正義」とやらのために本気で「罪を背負った」ということになる。これはある意味、原作以上に無慈悲な結末だ。クラヴィス大尉は虐殺の光景に魅せられたのが原因ではなく、正義という名の下に平気で人を殺してしまった。虐殺器官が備わっていないというのなら、なぜ人は人を殺せてしまえるのか。答えは簡単だ。そこに理想や目的がある。ただそれだけの理由で人は人を殺せるのだ。この物語に虐殺器官という理由付けはそもそも不要だった。そういうことにはならないだろうか。


 クラヴィス大尉の過ちというのは、本来、盛大に笑い飛ばしてやるべきだった。「あんたそれ、他のテロリストとやってること一緒じゃん! 嘘つくなよ! 本当は大量の死体見たいだけなんじゃないの!?」とそんな具合に。しかし、映画版は原作以上に、クラヴィス大尉のかましたボケにツッコむことが難しくなっている。先述した主人公が死の光景を引きずっていない、というのもその一因だろう。他にも、伏線として生きてくるはずのギャグ関連の文脈が抜けてしまったのは非常に痛い(何故かまさかのときの宗教裁判ネタだけ残っていたけど)。

 

 映画版におけるラストシーン。クラヴィス大尉は虐殺の文法を広めるため、米国全土に向けてジョンポールという人物について語り始める。まるで正義の体現者のそれであるかのように、彼の行いは清々しく描写されていた。しかしどうだろう。原作小説に準えて、あなたにも少しだけ考えてもらいたい。クラヴィス大尉の行動は果たして本当に正しかったのか。もしあなたが本気でクラヴィス大尉のように思い、考えることができたとしたらそれは危険なことだ。あるいはそうでなくても、この物語の説得力に騙されてしまったとしたら、あなたには自らの正義や理想のために虐殺を実行できる素質があるといえるかもしれない。

 それはまさに氏が予見した9・11以降の未来なのではないだろうか。

 

 テロリストや戦争を推進しているアメリカの人たちは、まさに「誰々人は敵」という単位で戦争をして、関係のない人を大勢巻き込んでいます。「しょせんはアメリカ人の」とかいう人は、こういうテロリストや戦争屋さんとまったく同じだと思って問題ありません。国内世論と自分の考えのズレについて思うだけで、そういうことが鈍感に過ぎるとは誰にでも容易にわかりそうなものですが、そういうことにはあまり考えがいかないようです。民族や国家という単位で人を扱いだした時、にんげんはいともたやすく無神経に、残酷に、すべてのにんげんは違うということに鈍感に、なれてしまうのです。

d.hatena.ne.jp

 

 原作の虐殺器官には、徹底したディテールとそれによって構築されたSFの世界観の中に、いくつもの悪意が散りばめられていた。もちろん、それを悪意と捉えるか、ありのままの事実の列挙として捉えるか、それを完璧な意味で判断することはできない。
 伊藤計劃という作家は死んだ。今頃、伊藤計劃後なんてキーワードを持ち出す気にはならないけれど、こういうことを気付かせてくれる人を、物語を通じて訴えてくれる人を、我々は純粋に一人失ったのだ。


 物語をどう捉えるか、そんなことは個人の自由だ。見たいものだけ見て、好きなように感じるしかない。結局、人はそのようにしかできていないし、その営みを止めさせることは不可能だ。

 

 そもそも、自らの作品について語らない作者は、読者にとって初めから死んでいるにも等しい存在なのだ。作者が目前にいない以上、好き勝手にその物語について解釈するしか道はない。それはどのような物語にも救いがあると同時に、危険因子として成立する可能性を示唆しているのだ。作者不在の作品だからこそ、その事実を忘れていけないのだと思う。

「FF15」 父親に殺害されるノクト、その理由とは

ゲーム

※「FINAL FANTASY XV」は周回済み。「BROTHERHOOD FINAL FANTASY XV」と「KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV」は鑑賞済み。他FF作品は未プレイ。

 

発売からしばらく経ったので、肯定的な視点で見直してみようという試み。
元ネタになった映画『スタンドバイミー』を中心に掘り下げていきます。

 

・叙事的でありながら、叙情的であった物語

 「さっぱりだ、わけわからん」という意見が多いのも無理はないと思う。というより圧倒的に描写不足なのだ、このシナリオ。タイタンがメテオを支えている理由も、リヴァイアサンが激怒した理由も、イグニスが失明する理由も、アーデンがプロンプトを生け捕りにして殺害しなかった理由も、イフリートが敵対する理由も、明確には描写されていない。全体的に説明に乏しいという指摘は的確だと思うし、今更そこに異議を唱えたところでどうしようもない。

 しかし、物語というのは発想を切り替えてみることで今までになかった視点を獲得できることがある。今回の場合であれば「この説明の少なさはちょっと異常じゃない?」といった具合にだ。

 あなたがもし、善良な読み手であれば、話全体に不自然な流れがあったとき、そこに何らかの意図が介在しているのではないかと疑うべきだ。


 初めてFF15をクリアしたとき、まず叙事という単語が頭の中に浮かんだ。

 叙事というのは

ヒーローの感動的な運命に感情移入することをつうじて、情緒を排出し、解消すること(ベンヤミン)を取り去って、筋の展開よりもヒーローの置かれている状況を描き、この状況への驚きを観客に求める。

叙事的演劇 | 現代美術用語辞典ver.2.0

 

 〇〇叙事伝・〇〇叙事詩なんてものがあるように、叙事的であるということは要するに神話であるということだ。同時に、神について記述するということは、人の理の外にある出来事に遭遇するということに他ならない。ラスボスの言葉を借りるとするならば、「神様の言葉は人間にはわからない。頭が痛くなる人もいるかもね」ということになる。
 留意していただきたいのは、六神が登場するから神話というわけでなく、ノクト一行の旅そのものが神話であるという点だろう。シヴァ・タイタン・ラムウ・バハムート・リヴァイアサンが登場するシーンはなるほど、たしかに神話っぽい。・・・・・・そうではなくて、FF15の物語全体を通して、ようやく一つの神話が成立するのだ。
 ゲーム本編に「創星記」という物語が登場する。これはイオスの成立に纏わる神話で、その宗教画の中にはノクト一行の姿が確認できる。少しややこしい構図になるが、人が神様の力を借りて災厄に対処するという予め用意された神話をノクトたち(ユーザー)は一連の旅を通じて再現させられる、ということになる。旅そのものが神話であること、また旅の内容が叙事的であるというのは、つまりそういう意味だ。
 したがって、この物語が一つの神話として語られている以上、「すごいけど、なんだかよくわからん」という感想は当たり前といえば当たり前、当然といえば当然なのである。製作者が狙って作ったからという他に理由はない。


 しかし、そこで問題になってくるのは、FF15はキャラクター主体の物語でもあるということだ。神という理解不能な存在を描きつつも、一方で、各キャラクターの感情に寄り添うような、そんな直感的で分かり易い内容に物語をまとめる必要性があった。FF15は、世界観は叙事的に、キャラクターは叙情的に、語られなくてはならなかった。


 個人的には、この部分が物語を解釈する上で混乱を引き起こす原因になったのではないかと考えている。
 例を挙げてみれば、水都オルティシエでの戦闘でイグニスが失明して帰ってくるシーン。そもそもあの失明のイベントには大した意味がないという指摘があるが、実はあの失明イベントにはちゃんと必然性があるのだ。創世記の絵画を確認してもらえればわかると思うが、目に包帯をした一人の男が神の従者として登場している。先述の通り、FF15は神話の再現する物語だ。絵画に描かれいるのがノクト一行である以上、その中の誰か――イグニスは必ず失明しなければいけなかった。


 「おい待て、そこが問題じゃないんだって。そもそも失明イベントを用意したのは脚本家なんだから、メタレベルでイベントを改編することも可能だったはずだろ」


 たしかに、もっと別の形で登場人物たちの苦悩を描くことは容易だったはずだ。わざわざ胸糞悪い失明という選択肢を採用せずとも、ノクト一行の旅をドラマチックに描くことはできた、そのはずだ。それでもあえて、このような結末に至ったのは、それだけFF15が叙事的な物語に固執しているという証左なのだろう。登場人物たちがそのときどのように思ったか感じたのかではなく、状況そのものへの驚きを優先すること。そして、登場人物たちはその状況に振り回されるだけの存在に過ぎないという事実を認識させること。『FF15』が目指したゲーム体験の軸はまさにここにあった。

 

 そしておそらく、なぜそんな事件が起きてしまったのか、そういった理由付けに対する関心がなくなってしまっているのはこれが原因だろう。状況そのものへの驚きを第一にもっていからこそ、『FF15』は説明することを避けたのだ。「説明」によって「驚き」は「納得」へと姿を変えてしまう。ゆえに説明することができなかった。


 FF15はキャラクター主体の物語でもあるため、その出来事に対して登場人物たちがそれぞれ気持ちの整理をつける必然性は生じる。だが、それはあくまでキャラクター内での補完だ。彼らが生きる世界、そこで起こる出来事というのは叙事的に構築されている。理不尽なイベントが存在する明確な意味も説明もそこでは描かれることはない。そこに残るのは、やはりそれぞれの解釈だけなのだ。

 

 

FF15とスタンドバイミーの関係性

 「ぶっちゃけ神様の話なんてオレどーでもいいんですよ。もっと感情に寄り添うような胸に熱いモノが込み上げてくる、そんなストーリーを期待してたのに。というかアレよ、元ネタの「スタンドバイミー」だって神様がどーとかそんな話じゃなかったでしょう。アレ、青春を振り返ってノスタルジーに浸る内容じゃん」


 ・・・・・・という人のために補足すると、実は「スタンドバイミー」という作品、非常に宗教色の強い作品なのである。
 FF15とスタンドバイミーの共通点、それは通過儀礼を経て成長するということだ。

映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方 (ちくま文庫)』の中で島田裕巳氏は通過儀礼について次のように語っている。 

 

通過儀礼とは、人間が人生の節目をむかえ、ある状態から別の状態へと変わっていく際に、節目を越えたことを確認するために行われる儀式のことである。

 

 映画「スタンドバイミー」においてレイ・ブラワーという少年の死体を探す旅は、まさに通過儀礼そのものだった。死体を見つけるため、子供たちは道中いくつもの困難に遭遇し、その壁を乗り越え成長していった。

 FF15も基本的にこれと同じ流れを汲んでいる。つまり、六神巡りやファントムソード集めは、彼らが世界の救世主という存在に到るための形式上の通過儀礼なのだ。成人式や結婚式のイベントと同じで、喩えそれ自体に意味はなくても次のステージに移るためには必要とされる工程なのだ。

 これらの要素は一見、ストーリーと上手く噛み合っていないように見えるため、そもそも必要だったのかと疑問視されることがある。しかし、創星記に記されていることを再現するならば、やはりこれらの儀式は欠かせないものだったといえるのだろう。

 

 

・ノクトは成長できたのかという問題

 気になるのは、この通過儀礼によってノクトは本当の意味で大人になることができたのかという問題だ。「スタンドバイミー」では、兄デニーが恐れたエースという存在を親友のクリスと共に追い払うことで、主人公ゴーディの精神的成長を描いている。ゴーディが大人になるため物語上に通過儀礼が用意されていた。

 一方で、六神巡りやファントムソード集めはどちらかというと形式上の通過儀礼に過ぎない。言ってしまえば、本人の心が大人だろうが子供のままだろうが、そんなことはお構いなしに物語は成立してしまうのだ。

 

 さて、ノクトの成長が明確に描写されたシーンはあるだろうか? ノクトは壮大な旅を通して最終的に大人になったと言えるのか?
 ここは難しい問題だと思う。王としての器を見せたからこそ、最終的にアーデンを撃破できたとも言えるし、それは成り行き上の話で結局、彼自身は自発的に成長しようとはしなかった、という見方もできる。
 個人的な意見としては、成長したのではなく無理矢理成長させられた、という印象のほうが強かった。かの有名な「やっぱ辛えわ」発言はそれを端的に表しているといえるし、また、そのように解釈すればFF15のテーマである「自己犠牲」という話題にも上手く繋がってくるからだ。

 

 

・「父殺し」の物語ではなく「父に殺される」物語

 ラストシーン、アーデンの復活を阻止するため玉座へと戻るノクト。その後、彼は王の剣を召還する。ノクトは歴代ルシス王に次々と串刺にされて、最期は実の父親であるレギスに心臓を刺される。その後、救済が用意されているとはいえ、なんとも悲痛な幕引きだ。

 再びスタンドバイミーの話に戻ってみる。スタンドバイミーには死体探しの旅の中、主人公が家族の夢を見るシーンがある。主人公の兄はいわゆるエリートというやつで、スポーツで優秀な成績を修めている。いうまでもなく周囲から将来を有望視されいる。そんな兄の突然の死。夢の中で父は息子に向かって一言、こう告げる。

「・・・・・・お前ならよかったのに」

 自分が父親から愛されていないと思い込むゴーディ。彼はキャンプで親友のクリスに自らの苦悩を打ち明ける。するとクリスは父親の代わりにお前を支えてやるとゴーディに誓う。小説家としての道を進むことを決意するゴーディ。


 これこそ先ほどの本のタイトルにもあった「父親を殺す物語」の本当の意味だ。


 主人公は父親を否定して、友人の力を借りて自らの運命を切り拓いていった。それまで絶対的な壁として立ち塞がっていた父親という存在を棄却して、敷かれたレールの上から敢えて外れていく道を選択した。
 FF15のストーリーラインはスタンドバイミーと似ているようで、実は大きく異なる。つまるところ、前者は「父親に殺される話」で、後者は「父親を殺す話」に要約されるのだ。


 父親を殺す物語というのは前述の通り、父親を越えていく物語であった。では、父親に殺される話とは何を指しているのか。 順当に考えればそれは「父親に託された道を肯定して予め用意された運命(宿命)を受け入れる」という意味になるだろう。


 FF15のシナリオは「こんな展開は間違っている。俺が悪いんじゃなくて世界が悪い。だから俺が無理矢理この世界の仕組みを捻じ曲げてやるぜ」といったありがちな熱血少年バトル漫画的なストーリー展開をがっつりと否定している。むしろその逆で、それよりも遙かに消極的で現実的な「一人の青年が責任を果たすためにあらゆるものを犠牲にする」という選択に執着しているのだ。


 スタンドバイミーでは、ゴーディは父親を殺して大人になった。一方、FF15ではノクトは父に殺されて大人になった。いずれの作品も大人になる過程を描いたものだという点には変わりない。ただFF15の場合、大人になるということは、責任を持つということ、そして、その責任を果たすためにはあらゆる犠牲を覚悟しなければならないこと(仮にその対象が己の命だったとしても)。この物語は大人になるということを、そのように定義して強調している。


 パッケージの裏に書かれた「父と子の物語」とは十中八九、この「父親に殺される物語」のことを指している。予め定められた運命に従うこと、それこそが「父と子の物語」の本来の意味だ。第一章の時点でレギス国王は死亡していたが、たとえ父親が本篇に殆ど登場しなくても、「父親に殺される物語」というのは実は成立するのだ。

 

 

 

 

「沈黙 -サイレンス-」 沈黙は敗北を意味しない

映画

 ありきたりな表現かもしれないけど、力強い物語を見たなあ、とそんな印象。映画館でこんな気分に陥ったのは、イニャリトゥ監督の「バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」以来かもしれない。

 

 長崎への密入国に始まり、異国での逃亡生活。幕府に見つかった後も、いつ自分が処刑されるかもわからない、そんな息の詰まるような緊息感が物語全体を取り巻いている。この映画がサスペンスとして一級品であることには間違いない。三時間近い長編作にもかかわらず、一瞬たりとも観客に飽きを許さないのだ。


 タクシードライバーという映画に初めて出会ったときのあの衝撃、スコセッシ映画特有の目に焼き付いて離れないそんな情景、それらは今作でも顕在している。霧掛かった九州の山道、江戸の町並み、そういった舞台背景はもちろん、やはり特筆すべきは塚本晋也演じるモキチが処刑されるシーンだ。大波押し寄せる岸壁で聖歌を口ずさむ光景は、もはや言葉では表現できないほど情景的で印象深い。原作は未読だが、この情景を文字媒体で再現するのはまず不可能だろう。


 もちろん、印象に残るからこの映画は凄い、なんて退屈なことを言うつもりはない。印象に残るということ、それはすなわち、そう簡単に忘れることはできない光景であるということだ。あの悲惨な光景を後遺症のように引き摺ることで、自分たちはようやく物語の核に一歩踏み出すことができる。どういう意味かといえば、つまりそれは、モキチの死が印象的であればあるほど観客は主人公の葛藤に寄り添うことができる、ということだ。あの死を無駄にしないために、あの光景を嘘という一言で終わらせないように、主人公はより一層、神という存在に執心するようになる。一向に救済の手を差し伸べてくれようとしない神に対し疑問を投げかけ、神の沈黙に真摯に向き合おうとする。そこで初めて彼は、ごくありふれた宣教師という立場から、本来あるべき信仰者として描写されるようになる。モキチの処刑シーンは、いわば彼にとってのターニングポイントだった。この出来事を境に、大衆を導くための布教活動は、神の沈黙の理由を探す旅に目的をすり替えていく。


 神はなぜ沈黙を保ったままなのか。この世に神は存在しないという証左なのか。アダム・ドライヴァー演じるガルペ神父は嘆き苦悶する。神職に身を捧げてきた彼にとって神の不在とは、単なる教義の喪失だけではない。生涯に渡り祈りを捧げてきた対象の消滅、それはすなわち自己の崩壊と同義なのである。

 

 目の前で起きるすべての出来事が巧妙に彼の精神を追い込んでいく。宣教師を棄教させる(転ばせる)こと反切支丹を撲滅するという幕府の意思変更、その大きな波に流されて、ガルペ神父は実質、拷問のような日々を強いられる。そして、価値観が崩壊する寸でのところで、それを後押しするかのように物語最大の山場が訪れる。彼は訪日した最大の目的であるロドリゴ神父との再会を果たすのだ。

 彼にとってロドリゴ神父は最後の希望だった。神父がたった一言、イエスの存在を肯定してくれればそれだけで彼は何の疑いもなく元の道に戻ることができたかもしれない。残念なことに、それは叶わなかった。ロドリゴ神父は既に棄教して(転んで)いたのだ。

「この地(日本)は沼だ。信仰が根付かない」

 ロドリゴ神父の説得にガルペ神父は激高、そして反論する。かつての師といえど、棄教した神父の言葉など彼にとって苦し紛れの言い訳のようにしか聞こえなかった。しかし、冷静に耳を傾ければ、ロドリゴ神父の指摘がいかに客観的で現状を見極めているのか見えてくる。

 

 かつてキリスト教という大きな物語がこれまでどれほどの悲劇を巻き起こしてきただろうか。聖書に書かれた言葉、その解釈の違いで世界はいくつもの国に分かれ、そこに住む多くの人々が血を流した。だからこそ神は自ら沈黙する道を選んだ。沈黙を選ぶことでしか人々を救済ことができなかった。何もせず口を閉ざすということ、一見、無慈悲にも思えるこの行為こそ、人々を救済するたった一つの手段だった。

 

 沈黙という行為の意味を理解したとき、ガルペ神父は自らもまた神と同じ道を選んだ。神と同じ方法で、人々を救うことを心に決めたのだ。その決意を誰に伝えるわけでもなく、自らの胸中に押し込めた。沈黙を貫くため彼はある条件をクリアしなければならなかった。それは「もの」対する拘りを捨てるということ。宗教における形式な行為、その一切を切り捨てる必要があった。形式に拘るということは周囲の人々に行動で示すということである。形式に拘ってしまえば、真の意味で沈黙を実践することは困難になる。

 形式からの脱却、その代表として絵踏を行うシーンが挙げられる。金属板に掘られたキリストの絵を踏むこと、それは神への侮辱に他ならない。しかしそれはまた同時に形式的な行為そのものだ。棄教しなければ教徒を殺すという幕府の脅しを受けて、ガルペ神父は最終的に踏絵を実行する。望まぬ形だったとはいえ、結局彼は自らの意志で十字架に掛けられたキリストの絵を踏みつけた。あのとき、心の中で彼は理解していたはずだ。キリストの絵を踏むことは、棄教を意味しないということを。周囲の人々に見せつけずとも関係ない。信仰は神と人の間でのみ成立するのだ。それ以外の誰にも示す必要はない。
 ちなみに、この絵踏という儀式は作中で何度も行われている。それだけ重要なシーンであるということだろう。個人的に面白いと思ったのは、この絵踏という儀式の描かれ方の変化だ。物語序盤から中盤にかけて絵踏は切支丹を判別するための検査装置に過ぎなかったにもかかわらず、物語終盤では、形式的な縛りから解放されたるための成長のための道具として用いられている。キリストの絵を踏む(越えていく)、という行為が価値観革新、精神的成長と結び付く部分は「なるほどこうくるか」などと思わず唸ってしまう。


 本題に戻そう。もちろん形式を捨てれば、周囲から理解を得ることは難しくなる。絵踏を実行したことによりガルペ神父は宣教師としての生きる道を完全に閉ざされた。しかし、宣教師という職に縋っているという事実も、形式に囚われていることの証左に過ぎない。形式を捨てた彼にとっては宣教師という立場も無用の長物だ。


 幕府の傀儡に成り下がった後も、ガルペの信仰は続いていた。幕府の監査の目は厳しく、その後も絵踏のテストは続き、その度に彼は棄教の意を示していたが、それは見せかけの嘘に過ぎなかった。その証拠に、四十年間幕府に仕えた彼は長い人生の最期、仏教徒として火葬される際に、ガルペはモキチから受け継いだ十字架をしっかりと握りしめていた。生涯を掛けて貫いた沈黙に果たしてどんな意味があったのか。この映画を観た人であれば、それは明らかであるはずだ。


 自分の意見を殺して黙ることが素晴らしい、などという勘違いは間違ってもしてはいけない。たしかにそれは社会で生きていくビジネスマンには必須のスキルかもしれないけど、集団圧力に屈してこの世に諦観する、なんてものがこの映画のタイトルである「沈黙」の指す意味などでは断じてないのだ。

 

安部公房の「砂の女」という小説にこんな一節がある。

「忍耐そのものは別に敗北ではないのだ。 むしろ、忍耐を敗北だと感じたときが真の敗北の始まりなのだろう」

 

 この作品は明らかに弱者に焦点を当てた反逆の物語だ。沈黙という言葉のイメージに纏う陰鬱さや諦観、そういったものはなく、静けさの中に潜む闘志がこの映画を支配している。沈黙は敗北を意味しない。むしろ、沈黙とは大きな物語に抗うための手段であるという、普遍的な題材がそこには眠っているのかもしれない。 

さて、ブログを書いてみましょう

 小説、漫画、映画、ゲーム関係なくフィクションに該当するもの、あるいはそれに準じるものについて批評なり感想なりをつらつらと書き連ねていきます

 文章表現の練習も兼ねるためエントリーごとに文体は変わるかもしれません

 細かいルールを決めてしまうと続かなそうなので何を書くかはそのときの気分で決めます。基本的に制約は設けませんが、ある程度読み応えのある記事を作成するため、ルールを一つだけ追加します。

 ※作品(フィクション)に対する愚痴・中傷は記事の対象としない

 理由はいくつかありますが、それは追々説明するとして

 いつまで続くかわかりませんが、よろしくお願いします