暫定語意

虚構、創作あるいはフィクションに纏わる話

映画「シリアスマン」 ユーモアの方程式

監督 ジョージ・コーエン、イーサン・コーエン 他

出演 マイケル・スタールバーグリチャード・カインド、アダム・アーキン 他

 

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 コーエン兄弟の作品は毎度のことながら反応に困る。笑うべきなのか笑わないでおくべきなのか。作中で描かれる不条理はたしかに笑える内容なのだが、しかし理性が「本当に馬鹿にしていいものなのか」とそれを押し留めようとする。

 

 

 本作「シリアスマン」の主人公ラリーは平凡な男だ。ユダヤ人で妻と息子と娘がいて、大学では物理学を教えているということ以外に、彼について特筆すべきことはあまりない。強いて言えば真面目であることくらいだろうか。大学では不真面目な学生たちに向けて淡々と講義を行い、家庭においてもヒーローとは程遠く、地味な雑用ばかり押し付けられている。子供たちにテレビのアンテナを直せと言われたら素直に屋根へと登る。ラリーはそういう男だ。

正直なところ、彼は映画の主人公としてはあまり相応しくないかもしれない。ブラッド・ピットジョージ・クルーニーのように飛び抜けて二枚目というわけでもないし、ましてや喋るだけで愉快な面白人間というわけでもない。

 しかし一方で、ラリーは底無しの馬鹿というわけではない。作中の描写を見る限り、無能であるとは思えないし、彼を愚か者と断じることはできないだろう。

 

 道化が馬鹿をしてドタバタを繰り広げるというのがコメディの定石だ。この場合、道化を演じるピエロ役は愚鈍であるほどいい。観客がもしピエロに感情移入してしまったら客席は一気に冷めてしまう。馬鹿にする相手は、観客が安心して見下せるような存在でなければならない。それが笑いを生み出すための条件だ。

 「シリアスマン」はそんなコメディの定石から逸脱してしまっている。意図的に外されたという表現のほうが的確かもしれない。虚構の存在であるにもかかわらず、ラリーというキャラクターがもつ平凡さ、真面目さは紛れもなく現実に即したものであり、そしてリアルに生きる観客の大半が共通してもつ属性でもある。つまり、ラリーは現実に生きる我々にかなり近い存在であるといえる。そんな彼をなぜ笑うことができるだろうか。どうして馬鹿にすることができようか。理不尽な現実に足掻き、理由を求め、ラリーは真面目に生きようとしている。もし我々が笑うとするなら、そんな彼の滑稽さ愚かさに対してではなく、世界の理不尽さと己の無力さに対して、呆れ果て笑うしかないのではないか。

 

 シリアスマンは一般的なコメディ映画とは異なる。少なくとも、滑稽な登場人物に活躍させて観客を笑わす、そんなありふれた作品ではない。コメディの在り方を問い直し、その根底を覆すような疑問を投げかける。

 

 本作を語るためには、科学や宗教といった要素についても触れなければならないだろう。科学とは、宗教とは、不条理な現実を耐え抜くため人間が編み出した知識体系である。気が遠くなるほどの年月を経て蓄積され、それらは常に目的がなければ生を謳歌できない人類の心の拠り所として機能する、そのはずだった。

 

 科学が行き着いた先はなんだろうか。量子力学シュレディンガーの猫の喩えや不確定性原理を生み出したが、それらは結局「わからないことがわかった」という無為な結論を導き出しただけだった。かくして黒板に刻まれた数式の羅列は、単に人の営みの虚しさを証明するだけに留まった。

 

 宗教が行き着いた先とは何か。作中に登場するユダヤ教信者たちは、人生を見つめ直し、発想を転換するによって人の心が救われると説いた。駐車場の奇跡や、オチのない歯医者の話を長々と垂れ流すことによって、彼らは人生に迷う者たちを救えると信じたのである。もちろんその類いの言説で救われる人もいるかもしれない。だが、ラリーのように徹底的に世間の不条理に振り回された人間はどうだろうか。宗教がすべての人に届くかといえば、必ずしもそうとは限らないのである。

 

 理不尽の応酬は続き、物語は予期せぬクライマックスを向かえる。最後にはそれこそ妻からの離縁依頼など些細なものだったと感じられるほどの壮大さ、ヨブ記の大嵐を彷彿とさせるスケールの天変地異を体感できるようになっている。因果律は崩壊し、さながら大海に放り出されたかのごとく、観客を含めたあらゆるものが置き去りにされる。

 

  科学が人を救えないのなら、宗教が人を救えないのなら、一体何が人類を救済するのか。そのヒントとなるのが、作中に散りばめられた数々の「ユーモア」である。

 

 もしこの結末を最初から知っていたのなら、あるいは理解していたら、この物語のすべての出来事が取るに足らないものだったとそう解釈できるようになるかもしれない。どんなに酷い日常の出来事も、この世の終わりに比べれば小さな不幸積み重ねに過ぎない。そして、小さな不幸に構って時間を無駄にすることほど愚かなことはない。ならば現実を受け入れた上で、笑ってやり過ごしてしまえばいいではないか。笑いの必要性について、真面目に力説するこの映画の裏には、そんなポジティブな思考が働いているように思えてならない。

 

 

 

シリアスマン (字幕版)