暫定語意

虚構、創作あるいはフィクションに纏わる話

ゲーム「FF15」 父親に殺害されるノクト、その理由とは


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※「FINAL FANTASY XV」は周回済み。「BROTHERHOOD FINAL FANTASY XV」と「KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV」は鑑賞済み。他FF作品は未プレイ。

 

発売からしばらく経ったので、肯定的な視点で見直してみようという試み。
元ネタになった映画『スタンドバイミー』を中心に掘り下げていく。

 

叙事的でありながら、叙情的でもあった物語

 

 

 FF15をプレイした感想として真っ先に上がるのは「すごいけど、なんだかよくわからない」というものだ。少なくとも自分はそうだった。一言でいえば描写不足。疑念の余地もなく本当にその一言に尽きる思う。言ってしまえば、タイタンがメテオを支えている理由もリヴァイアサンが激怒した理由もイグニスが失明する理由もアーデンがプロンプトを生け捕りにして殺害しなかった理由もイフリートが敵対する理由も、何もかも描写されていないのだ。全体的に説明に乏しいという指摘は的確だと思うし、今更そこに異議を唱える気もない。

 これでお終いというのは、流石にレビューブログとしては味気ないので、もう少し掘り下げて考えてみたいと思う。物語というのは発想を切り替えてみることで、今までになかった全く新しい視点を獲得できることがある。本作に関していえば「この説明の少なさはちょっと異常じゃない?」とそんな具合に疑ってみるのはどうだろう。もしあなたが善良な読み手で、物語に違和感を感じたとしたら、そこに何らかの意図が介在しているのでは?とまず真っ先に疑うべきなのだ。

 FF15をクリアしたとき、まず初めに「叙事」という単語が頭の中に浮かんだ。この「叙事」というのは要するに

ヒーローの感動的な運命に感情移入することをつうじて、情緒を排出し、解消することを取り去って、筋の展開よりもヒーローの置かれている状況を描き、この状況への驚きを観客に求める。叙事的演劇 | 現代美術用語辞典ver.2.0

 

 注意してもらいたいのは、普段我々が慣れ親しんでいるような叙情的物語、いわゆるエンタメ作品とは違い、叙事的物語というのは「状況への驚き」を物語の軸としているということだ。叙情的物語と異なり、叙事的物語では状況に対する理解は優先されない。これは要するに神話的であると言い換えることもできる。神について記述するということは、人の理の外にある出来事に遭遇するということであり、そこには「状況への驚き」は存在するが、一方で、状況に対する理解はほとんど無視されることが多い。人間ごときが神の意思を理解することは容易ではない、とかなんとかそれっぽいことを言えば伝わるかもしれない。今作のラスボスの言葉を借りるとするなら「神様の言葉は人間には分からない」「頭が痛くなるかもね」ということになる。


 FF15ゲーム本編には「創星記」という物語が登場する。「創星記」はイオスに纏わる神話で、その宗教画の中にはノクト一行の姿が確認できる。

 

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 本編開始の数百年前に描かれた宗教画の中に、なぜノクトたちの姿が描かれているのか。実をいうと、この「創星記」は単なる御伽噺ではなく、未来に起きる出来事を記述した預言書なのだ。ゲームをクリアしたユーザーなら、その内容が「FF15」本編と一致していることにすぐ気付くだろう。

 

 作中の描写から察するに、「創星記」の物語は、イオス全体に広く伝わっているらしい。ルーナの演説の内容を多くの市民が理解、賛同していたことからもその事実は窺える。加えて、国王レギスも、息子であるノクトの運命を知った上で、彼を旅立たせている。物語の始まり・きっかけにもこの「創星記」は深く関わっているのだ。

 

 極端な言い方をすれば、「FF15」というゲームは「創星記」を再現するゲームなのだ。ノクトたちの旅もまた一つの神話であるために、彼らの旅は叙事的に語られていくことになる。

 

 冒頭の話題に戻ろう。「FF15」をクリアして「すごいけど、なんだかよくわからない」という感想を抱いたとしたら、それは当然の結果だといえる。繰り返すが、叙事的物語では話の筋より状況への驚きを優先がされる。「すごいけど、なんだかよくわからない」という印象を抱かせてくれるのが、神話というものなのだ。設定をすべて事細かに解説してしまうと、この「驚き」は極端に薄れてしまう。だから、あえて意図的に説明を省いたのではないだろうのか。

 

 FF15は叙事の物語構造を採用するその一方で、キャラクター主体型のストーリー、つまり叙情的物語にも寄せようとしている。神という理解不能な存在を描きながら、各キャラクターの感情に寄り添うような、そんな直感的で分かり易い物語を追求している。

 一見、矛盾しているように聞こえるかもしれないがそれは違う。これは単に描き分けの問題だ。FF15は、物語展開は叙事的に、キャラクターは叙情的に、それぞれ語られる必要があった。

 あくまで状況そのものへの驚きを優先すること。そして、キャラクターはその混沌した状況に振り回されるだけの存在に過ぎないということ。それがFF15におけるストーリーの基本軸だ。

 キャラクターたちがどれだけ辛い経験をしたのか、そういった負の感情については多くの場合、無視されている。彼らが今どんな窮地に立たされいるのか、そういったことは六神や歴代王、その他世界中の人々にとっては全く関係の無いことなのだ。世界を救済してもらえればそれで万事解決なわけで、犠牲となる人間の気持ちなどこの際、構っていられないのである。

 

 理不尽ともいえる過酷な運命にどのように対峙すればよいのか、それが本作FF15のストーリーであり、ゲーム体験の本質なのではないだろうか。

 

FF15とスタンドバイミーの関係性

 本作は「スタンドバイミー」という作品のオマージュになっている。あまり知られていないが、この「スタンドバイミー」という作品は実は宗教色の強い作品だったりする。

 

 「FF15」と「スタンドバイミー」最大の共通点、それは通過儀礼を経て成長を遂げることだ。『映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方 (ちくま文庫)』の中で島田裕巳氏は通過儀礼について次のように語っている。 

 

通過儀礼とは、人間が人生の節目をむかえ、ある状態から別の状態へと変わっていく際に、節目を越えたことを確認するために行われる儀式のことである。

 

 映画「スタンドバイミー」においてレイ・ブラワーという少年の死体を探す旅は、まさに通過儀礼そのものだった。死体を見つけるため、子供たちは道中いくつもの困難に遭遇し、その壁を乗り越え成長していった。

 FF15も基本的にこれと同じ流れを汲んでいる。つまり、六神巡りやファントムソード集めは、彼らが世界の救世主という存在に到るための形式上の通過儀礼なのだ。成人式や結婚式のイベントと同じで、喩えそれ自体に意味はなくても次のステージに移るためには必要とされる工程なのだ。

 これらの要素は一見、ストーリーと上手く噛み合っていないように見えるため、そもそも必要だったのかと疑問視されることがある。しかし、「創星記」に記されていることを再現するならば、これらの儀式は欠かせないものだったといえるのだろう。

 

 

ノクトは成長できたのかという問題

 気になるのは、この通過儀礼によってノクトは本当の意味で大人になることができたのかという問題だ。「スタンドバイミー」では、兄デニーが恐れたエースという存在を親友のクリスと共に追い払うことで、主人公ゴーディの精神的成長を描いている。ゴーディが大人になるため物語上に通過儀礼が用意されていた。

 一方で、六神巡りやファントムソード集めはどちらかというと形式上の通過儀礼に過ぎない。言ってしまえば、本人の心が大人だろうが子供のままだろうが、そんなことはお構いなしに物語は成立してしまうのだ。

 

 さて、ノクトの成長が明確に描写されたシーンはあるだろうか。ノクトは壮大な旅を通して最終的に大人になったと言えるのか。
 これは難しい問題だと思う。王としての器を見せたからこそ、最終的にアーデンを撃破できたとも言えるし、それは成り行き上の話で、結局、ノクト自身は自発的に成長しようとしなかった、という見方もできる。
 個人的な意見としては、成長したのではなく無理矢理成長させられた、という印象のほうが強かった。かの有名な「やっぱ辛えわ」発言はそれを端的に表しているといえるだろう。本人の意思とは関係なく、世界がそう望んだから成長せざるを得なかったとそのように見てとれる。FF15のテーマの一つに「自己犠牲」というものがあるのは、まず間違いないだろう。

 

「父殺し」の物語ではなく「父に殺される」物語

 ラストシーン、アーデンの復活を阻止するため玉座へと戻るノクト。その後、彼は王の剣を召還する。ノクトは歴代ルシス王に次々と串刺にされて、最期は実の父親であるレギスに心臓を刺される。その後、救済が用意されているとはいえ、なんとも悲痛な幕引きだ。

 再びスタンドバイミーの話に戻ってみる。スタンドバイミーには死体探しの旅の中、主人公が家族の夢を見るシーンがある。主人公の兄はいわゆるエリートというやつで、スポーツで優秀な成績を修めている。いうまでもなく周囲から将来を有望視されいる。そんな兄の突然の死。夢の中で父は息子に向かって一言、こう告げる。

「・・・・・・お前ならよかったのに」

 自分が父親から愛されていないと思い込むゴーディ。彼はキャンプで親友のクリスに自らの苦悩を打ち明ける。するとクリスは父親の代わりにお前を支えてやるとゴーディに誓う。小説家としての道を進むことを決意するゴーディ。


 これこそ先ほどの本のタイトルにもあった「父親を殺す物語」の本当の意味だ。


 主人公は父親を否定して、友人の力を借りて自らの運命を切り拓いていった。それまで絶対的な壁として立ち塞がっていた父親という存在を棄却して、敷かれたレールの上から敢えて外れていく道を選択した。
 FF15のストーリーラインはスタンドバイミーと似ているようで、実は大きく異なる。つまるところ、前者は「父親に殺される話」で、後者は「父親を殺す話」に要約される。


 父親を殺す物語というのは前述の通り、父親を越えていく物語であった。では、父親に殺される話とは何を指しているのか。 順当に考えればそれは「父親に託された道を肯定して予め用意された運命(宿命)を受け入れる」という意味になるだろう。


 FF15のシナリオは「こんな展開は間違っている。俺が悪いんじゃなくて世界が悪い。だから俺が無理矢理この世界の仕組みを捻じ曲げてやるぜ」といったありがちな熱血少年バトル漫画的なストーリー展開をがっつりと否定している。むしろその逆で、それよりも遙かに消極的で現実的な「一人の青年が責任を果たすためにあらゆるものを犠牲にする」という選択に固執しているのだ。


 スタンドバイミーでは、ゴーディは父親を殺して大人になった。一方、FF15ではノクトは父に殺されて大人になった。いずれの作品も大人になる過程を描いたものだという点には変わりない。ただFF15の場合、大人になるということは、責任を持つということ、そして、その責任を果たすためにはあらゆる犠牲を覚悟しなければならないこと(仮にその対象が己の命だったとしても)。この物語は大人になるということを、そのように定義して強調している。


 予め定められた運命に従うこと、それこそが「父と子の物語」の本来の意味だ。第一章の時点でレギス国王は死亡していたが、たとえ父親が本篇に殆ど登場しなくても「父親に殺される物語」というのは物語上、実は成立するのだ。

 

おわりに

 「FF15」でノクトが父親に殺される理由、それはノクトが悲劇的な運命を受け入れるための儀式に他ならなかった。

 馬鹿みたいに長ったらしい文章で語っておいて何だが、正直このテーマが「FF15」をプレイするようなユーザーにウケかどうかは甚だ疑問だ。少なくとも、万人受けするテーマではないと思う。

 ただ最近のゲームは、良くも悪くも完璧さが求められている。世界中から注目されるようになり、期待値が青天井になっているようなそんな風にも感じる。

 一人のゲーマーとしては、ゲームの不完全さを許容できるような、そういった心持ちでありたいと切に思う。

 今後も、物語の歪みを面白さに変換できるようなそういった記事をできるだけ多く書いていきたい。