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意味があれば気にしないですむ

虚構、創作あるいはフィクションに纏わる話

映画「偽りなき者」 他人を信じるな。疑うことを疑え

「Hideo Tube(ヒデチュー)」第六回で紹介されていた映画「偽りなき者」の感想記事です。直接的なネタバレは避けていますが、できることなら鑑賞後推奨。

 

 小島監督推しっぷりが尋常ではなかったので、気になって気になってようやく鑑賞。なるほど、万人受けするタイプの映画ではないけれども、あの「ミスト」を越える胸糞っぷり&ラスト二重のどんでん返しは映画ファンならば必見。もちろん、それだけでは終わらないのがこの「偽りなき者」。この問題について一人でも多くの人に考えてもらいたい、と布教の衝動に駆られるそんなタイプの作品。

 

 監督はトマス・ヴィンターベア。主演はマッツ・ミケルセン。ちなみに彼はこの作品でカンヌ国際映画祭の男優賞を受賞したとのこと。

 

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 目の前の嫌な現実から逃避するための映画。大笑いして、涙を流し、今この瞬間を忘れ去る映画。そのあまりのくだらなさ故に、次の日の朝にはどんな内容だったのか思い出すことも難しい映画。世の中はそのようなエンタメ系映画で溢れている。


 そんな映画たちを、こよなく愛するあなたは、日曜日の昼下がりにふとレンタルビデオ店に立ち寄り、意気揚々と自宅に戻る。ふかふかのソファの上でだらしない姿勢のままこの映画を観始め、そして、開始三十分もしないうちに心底不快な気持ちに陥るのだ。


 不意打ちを食らうのも流石に気の毒なので、先に宣言しておきたいと思う。

 この映画に、嫌な現実を吹き飛ばす痛快さを期待してはいけない。鬱憤を解放したときに生じるカタルシスなど以ての外だ。そんなものは犬にでも喰わせてしまえと、この映画はそんな楽観的な態度で構えていた鑑賞者に背後からドロップキックをくらわせ、本気で食い物にしてしまう。

 

 ここに記録されているのは、悪意の発生とその軌跡だ。制御不能の悪意は、まるで自然災害のように、辺り一帯を蹂躙し、何一つ恩恵をもたらすことのないまま身勝手に消滅していく。現場に残されるのは、修復不能の傷痕と、それによって撒かれた新たなる悪意の種だ。

 

 「偽りなき者」を観終えた後、あなたはモヤモヤした気分に囚われるかもしれない。というのも、この映画は、人々の「悪意」について語りこそするものの、それを回避する手法や打開策については一切提言してくれないのだ。人という醜悪な存在に対する僅かな希望を容赦なく潰しにかかってくる「衝撃のラストシーン」を観る限り、親切さとは真逆の印象を受けるだろう。円満な解決法など世の中には存在しない、そういった厭世観を、あなたはこの映画から感じ取るかもしれない。

 

 一見、この映画は「我々はこのような悪意について、どのように対峙すればよいのか」そういった問題について解決を放棄しまっているように思える。・・・・・・しかし、どうだろう。人の気分を不快にさせる、たったそれだけの目的のために、この映画が作られたというのは、流石に考えにくい。というか、考えたくない。なので、もっと別の思惑があるのではないかと疑ってみることにする。そう、例えば、この映画は答えを出せなかったのではなく、あえて答えを出さなかったのだ、とか。


 悪意の対処法について安易な解決を導き出さなかった理由――もっと噛み砕いた表現をするならば「もっとこういう風に生きたら人生楽しくなるんじゃない?」といったエンタメ系映画にありがちな提案を良しとはしなかった理由――それは、「偽りなき者」で描かれる「悪意」の問題について、観客一人独りがそれぞれ一生を賭けて向き合わなければいけない問題であると、そう訴えているからではないだろうか。


 何をすれば正解なのか、世の中にそんなわかりきった正解は存在しない。小学校の計算ドリルのように、ページの最後に答えがくっついていることなんてことはまずあり得ない。


 たった一つの冴えたやり方、絶対無敵の攻略法がもし仮に存在するのだとしたら、それは「悪意」ついて人々が真剣に向き合い、それぞれが正解を探し求める、ということなのだろう。だからこそ、この映画は「答えを提示する」ではなく「観客全員に投げかける」という手法を選んだのだ。

 

 予め用意された答えに従うだけでは駄目だ。それでは、ルーカスに石を投げた連中と変わらない。何が正解で何が間違っているのか、自分で導き出した答えにこそ価値がある。他人を信じるな。疑うことを疑ってみなければ、この映画と同じ結末を辿ることになる。ハッピーエンドに辿り着くことなど夢のまた夢だ。


 もしあなたが思考することを億劫だと感じるならば、この映画は退屈にしか映らないかもしれない。それは当然のことだ。この映画は「思考停止」する者を徹底的に拒み、忌み嫌っている。「思考停止」こそ諸悪の根源であり、自らの考えをもたずに集団の意思に流されること、それこそ「悪意」が生まれる瞬間なのだ。