暫定語意

虚構、創作あるいはフィクションに纏わる話

映画「キングスマン」 礼儀知らずを屠る礼節

監督 マシュー・ボーン
キャスト コリン・ファース タロン・エガートン 他

 

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 娯楽作品と割り切って鑑賞すれば傑作。真面目に観察してしまうと理解に窮する作品。最後の試練や花火のシーンなど、ツッコミを入れたくなる気持ちは痛いほどわかる。わかるのだが、そういった見方をしてしまった時点で、たぶんこの映画はもう十分には楽しめない。なぜなら、「キングスマン」は意図的にそのように設計された作品だからだ。悲劇的な気分に浸りたいがためにお笑いコンサートへ通う人間はいない。空腹を紛らわすためにコンサートライブに向かう人間もいない。それと同じように、人生哲学を学ぶために「キングスマン」を観るべきではない。

 

 映画とは本来、一つの現象に過ぎない。読み手の数だけその解釈も無数に存在するものである。しかし本作に関していえば、良くも悪くもあらゆる解釈を許容するほどの器は正直言ってない。というか実際、こんな風に観てね、と作中で言及してしまっているのだからそういう風にしか楽しめないし、逆に楽しめないというなら画面の前から立ち去るか、あるいは、打ち上げ花火になるしかないのである。シリアス重視ではなく、かつての007シリーズのように、大胆で優雅でスタイリッシュなところが本作の売りです、なんて下字幕に出ているのだから、その件に対して一々揚げ足を取るのも大人げない気はする。同時に、映画の楽しみ方を映画自体が指定してしまうというのも、同じくらい野暮だと個人的には思う。なので、ここは引き分けということで手を打っていただきたい。

 

マナーと配慮

 

 納得できない、という人のほうが大多数だと思うので、少し真面目な話もしてみたい。作中でやたらマナーマナーと叫ばれていたが、これは一体何のことだったのか。ゲス野郎を完膚なきまでに叩きのめす行為がマナーなのかといえば、おそらくそれは違う。空気を読むだとか常識を弁えるだとかそういった意味によく用いられる言葉でもあるが、それとも些かニュアンスが異なる。本作で語られるマナーとは、おそらく鍛錬によって培われた技術や精神を指しているのだろう。つまり、マナーとは結果なのである。


 主人公のエグジーはキングスマンになるためはあらゆる試練に挑む。本編の大半もこのスパイ育成物語である。死と隣り合わせの毎日、その果てにエグジーが手に入れたものはスパイとしての立ち振る舞い、身のこなしだった。不良時代と比較すればその差は歴然だろう。中でも特筆すべきは作中の戦闘シーンである。洗練された一切無駄のない圧倒的なアクション。それらは一度、観客の目に焼き付くとどうにも離れない。本作において、アクションの完成度はそのまま主人公の成長を意味する。そして、悪を圧倒する絶対的な力はマナーによるものである。マナー最高!といった具体に、アクションの完成度がマナーの素晴らしさを称える説得力にも繋がってくるのである。少なくとも、作り手はそのように考えたはずだ。

 

 マナーとはそう簡単に身に付くものではないが、習得すれば他人に誇れるものになる。本作ではマナーについてそのように語られている。一方で、「なぜマナーを身に付けるのか」その動機については直接的には触れられていない。もしそれらしい答えが本作の中にあるとしたら、それはやはり他人への配慮だろうか。本作の悪役が掲げる理想は大勢の人間を犠牲して成り立つものだった。世界中の人々に対する配慮が彼らには足りなかった。「キングスマン」とは他者への配慮のない人間(マナーのなっていない者)に制裁を加える組織である、と解釈すればそれなりに筋が通るかもしれない。

 

 もっとも、倒される敵に対する配慮が毛ほどもなされていないのが大分気になる。それについては先ほども述べたようにエンタメ作品ということで割り切るしかないのかもしれない。悪役に配慮して物語を構成していたら、作品全体のカタルシスは大きく損なわれていただろう。優先順位を決め、捨てるべきところを捨てる。その判断すら放棄してしまうのなら、映画としての質は格段に落ちることは容易に想像できる。すべての人間に配慮できないのは「キングスマン」も「映画」も一緒なのである。どちらも万能とはいかないのだ。

 

腐敗と歪み

 

 マナーの反対には常に腐敗が位置する。いくら技術を磨いたところで、初心を忘れてしまえば、その想いもいつかは腐り果ててしまう。マナーとは伝統によって培われるものだとよく思われがちだが、本作ではそれをがっつり否定している。むしろ、地位や名誉に甘んじることでマナーは損なわれていくという描写まであった。各国の首脳やその関係者、キングスマン候補生や、そして、キングスマンという組織自体にも腐敗の根は広がっていた。世界の危機を口実に、主人公たちはその腐敗を頑なに認めようとはしない。譲歩する姿勢すら一切見せようとしない。米国大統領だろうとアーサー王だろうとその必要性があればさっさとご退場いただく。それが本作だ。


 はっきりいうと「キングスマン」という映画はかなり奇妙な作品だ。歪といってもいいかもしれない。マナーという相手への配慮をテーマに扱っているのに、「映画」の優先順位付けの段階でその配慮を破棄してしまっている。内破しているというべきなのか。


 極度の潔癖症というのは些細な汚れにすら不快感を抱くらしい。人は心地よい気分でその日を過ごすため部屋を掃除するのに、その執着が相手の気分を害してしまうのだから本末転倒だ。あの例の花火シーンにはそういった過剰さが滲み出ている気がする。

 
 その壊れ具合を不快に感じる人間は結構いるはずだ。そんな理由でこの映画が嫌いな人も多いかもしれない。しかし、個人的には正直その歪さは嫌いではなかった。むしろ、このアンバランスさが映画を成り立たせている、そのように考えると不思議と嫌いにはなれないのだ。個人的な感傷はさておき、過剰な演出によって誤魔化されたあの雑多な味がもう一度味わいたいというのなら、本作をもう一度見直す価値は十分にあるだろう。防弾傘の格好良さは世界共通。