暫定語意

虚構、創作あるいはフィクションに纏わる話

アニメ「Devilman Crybaby」 デビルマンが抱える矛盾とは

Netflix配信のWebアニメーション作品。原作は永井豪。監督は湯浅政明
原作は未見。本編のネタバレ含む感想です。

 

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 「デビルマン」を知らない世代にとって、そのタイトルから連想されるのはヒーローものの作品群である。世界的に有名なのはDCコミックスの「スーパーマン」「バットマン」、MARVELの「スパイダーマン」や「アイアンマン」。国内だと、やなせたかしの「アンパンマン円谷プロダクションの「ウルトラマン」や藤子F不二雄の「パーマン」が代表的なところである。いずれに共通するのは悪役に立ち向かうヒーローなる存在が登場する点である。


 「デビルマン」は所謂ヒーローものの作品の血を継いではいるものの、その作風は百八十度異なる。主人公の「デビルマン」は大衆の味方ではあるが、大衆にとってのヒーローではない。悪魔的な容姿のおぞましさと、敵役である悪魔と同じ能力を行使するという点で、彼は「ヒーロー」とは認知されず、逆に人々から畏怖されてしまうのである。「デビルマン」は弱き者に手を差し伸べるが、大衆から拒絶され、代わりに石を投げつけられてしまう。実のところ、この「デビルマン」というタイトルはダブルネーミングになっている。「〇〇マン」といった「ヒーロー」の文脈を継承しつつ、それと同時に「悪魔」と「人間」の間で揺れ動く存在の葛藤を表現しているのだ。

 

悪魔か人間か

 

 主人公の不動明は、幼馴染みの飛鳥了に連れられ怪しげなパーティーに参加する。奇怪な儀式に参加したことにより、不動明は悪魔として覚醒してしまい、その後、「デビルマン」として生きる道を強要される。「人間」としての理性を保ちながらも、周囲からの誤解により「悪魔」として誤認され「デビルマン」は迫害を受ける。その境遇はまさに後天的フランケンシュタインにも喩えられるだろう。


 気弱で泣き虫でどこか頼りない印象を受ける不動明だが、デビルマンとして覚醒した後は肉体的変化により荒々しく獰猛な性格へと変化する。一方で、根底にある個性は覚醒前と変わらず、人間を襲う悪魔を排除する正義感が強さや、他者の死に慟哭するといった情に脆い一面を覗かせてくれる。怪物のような見た目の巨漢が、赤子のように涙を流す光景は、なんとも心に込み上げてくるものがある。

 

 一方で、主人公の協力者であり後に「デビルマン」と敵対することになる飛鳥了の性格は、まさに「人間の皮を被った悪魔」とそう表現するのが相応しい。作中で語られる飛鳥了の計画は「悪魔」と「人間」との闘争を決定的なものにし、すべてを破滅へと導くのである。「悪魔」らしい「人間」である飛鳥了。しかしその邪悪さも含めてやはり「人間」らしい。目的のため手段を選ばず、他者の犠牲によって進化し続けてきたのが「人間」という生き物だったはずだ。生まれながらの天才である飛鳥了は、たった一人でそれを完遂しただけに過ぎない。

 

 「人間」の特色が強い「悪魔」の不動明。「悪魔」の特色が色濃い「人間」の飛鳥了。正反対の属性をもつ彼らだが、共通するところは多い。目の前の弱者を助ける不動明はミクロの視点では「人間」だし、種全体の救済を敢行する飛鳥了はマクロの視点で「人間」といえる。 そもそも「悪魔」と「人間」の違いは何なのだろうか。生物学的差異か、身体的特徴の違いか、精神の在り方の隔たりか。あるいはもっと単純に、言葉の差なのか。「人間」とは多くの人々にとって都合の良い性質を指し、逆に「悪魔」とは都合の悪い特性を言い表しているのではないか。どちらも本当は「人間」であるにもかかわらず、言葉の違いが両者を引き裂いているようにも感じられる。

 

過ちは止まらない

 

 物語は不動明飛鳥了の対決によって最終局面に移る。不動明は「悪魔」を敵視し、飛鳥了は「人間」を排除するため立ち上がる。「デビルマン」は勧善懲悪の物語ではない。主人公である不動明も、悪役である飛鳥了も、両者は等しく間違っているし、過ちを犯している。そもそも「デビルマン」という作品においては、不動明飛鳥了、そのどちらが主人公でどちらが悪役かという議論すら無意味である。両者の抱える矛盾ゆえに、対立は決定的なものになったのである。

 

 不動明は、悪魔の存在に怯え同士狩りを始める人々に対して「同じ人間同士で争ってはいけない」と説く。しかし彼自身もまた悪魔を殺す悪魔である。同種殺しには変わらない。それでも、理性のある人間は排除対象から除いていたはずだったが、同じく理性を保ったまま悪魔に転生したサタンもとい飛鳥了に、不動明は宣戦布告してしまう。結局のところ、不動明飛鳥了と敵対する覚悟を決め、同種殺しに身を投じてしまうのだ。繰り返し繰り返しバトンを渡し続けた不動明だったが、結局、飛鳥了はそのバトンを最後まで受け取ってはくれなかった。意思疎通の失敗に不動明の心は完全に折れてしまった。彼は人間の善性を最後まで信じ抜くことができなかったのである。

 

 「同種殺し」の構図は作中で何度も繰り返されているものでもある。人間を救うため「悪魔」となった不動明が「悪魔」を殺す。悪魔に畏怖した「人間」がデマに惑わされ同種である「人間」を殺す。堕天使した「天使」が神率いる「天使」軍と殺し合う。「俺はあいつとは違う」と線引きを行い「同種殺し」を実行する光景が、本作では幾度となく繰り返される。。

 作中で、なぜ同性愛者が登場するのか。同性愛者は異性愛者から排除されてきた歴史をもつからである。作中になぜラッパーが登場するのか。ヒップホップの起源は黒人差別と深い関わり合いがあるからである。なぜ同じ名前の「ミキ」が二人登場するのか。家庭環境の違い、身体能力の差によって、ミーコは牧村美樹と区別されてきたからである。

 いずれも「元は同じなのに排除されてきた」という過去をもっている。「同種殺し」の結末がいかに悲劇的なものであるか作中でも証明されている。しかしながら、不動明は、最終的にこの構図から脱却することはできなかった。「地獄へ堕ちろ、人間どもめ」と不動明は人間を焼き殺しながら吐き捨てる。だが、考えてもみて欲しい。彼はそもそも人間ではなかったのか。

 ヒロインの死をきっかけに人間の善性を信じられなくなった不動明は、悪魔人間と手を組み、サタンに立ち向かう。しかし彼は「同種殺し」の仕組みに気付いているのだろうか。もし気付けていたのなら、衝突は避けられていたのではないかと感じる。

 

 

 飛鳥了の矛盾については指摘するまでもない。彼は救済すべき相手を見誤ってしまった。物語冒頭では、悪魔として覚醒してしまった不動明を守るのが目的だった。しかし、彼自身サタンとしての本能に目覚め始め、その目的は悪魔を保護するという方向性に切り替わっていく。悪魔としての本能に抗いきれず、最終的に飛鳥了不動明を殺害してしまう。そして最後の最後にようやく気付くのである。自らの本当の目的、飛鳥了を救うため闘ってきたのではかと。

 

 「Devilman Crybaby」は何を救うべきか見誤ったヒーローたちの悲劇を描く。彼らは理性と本能の間でせめぎ合い、人の性に溺れ、赤子のように泣き崩れるのである。

 湯浅政明はアニメーションを絵画のように扱う。自由自在に筆を滑らせ、キャラクターの欲望をときにユーモラスに、ときにセクシャルに、ときにグロテスクに描き出す。それらはどれも「デビルマン」の主題には欠かせない表現だといえるだろう。もしこれらが規制されてしまっていたらと思うとゾッとする。だから、楽しめるうちに楽しんでおこう。映像体験としてこれ以上に贅沢なことなど他にないのだから。

 

 

 

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