暫定語意

虚構、創作あるいはフィクションに纏わる話

映画「ファーゴ」 冗談では済まなくなった冗談

監督 ジョエル・コーエン
脚本 ジョエル・コーエンイーサン・コーエン
出演 フランシス・マクドーマンドウィリアム・H・メイシースティーヴ・ブシェミピーター・ストーメア 他

 

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 「冗談が冗談にならない」そんな状況に人は誰しも巡り会う。悪意の塊のような光景を前に人はどう振る舞うべきか。あるいはどう足掻くべきなのだろうか。「ファーゴ」は映画体験を通じて我々に問いかける。

 

 

 ジャンル分けでは一応コメディに分類される本作だが、断じてポップコーンを頬張りながら馬鹿笑いして楽しむタイプの作品ではない。連続殺人事件を題材として扱っている以上、それを笑いのネタに昇華させてしまうのはやはりというかなんというか「不謹慎」の一言に限る。


 上映開始直後に流れる「これは実話である」の文章。観客にモデルとなった事件を想像させるその狙いは「笑いの抑制」にある。今この地球上のどこかに事件の後遺症に苦しんでいる人がいるかもしれない、作り話ならともかく実話なら冗談にすべきじゃない、もし観客の誰かがそういった強迫観念じみた何かに縛られたとしたら、その目論見は成功したといえるだろう。本作はコメディ映画でありながら笑ってはいけない雰囲気を意図的に演出している。冗談が冗談にならない、そんな光景をまさに再現しているのだ。

 


 主人公達が企てた計画も最初は冗談みたいなものだった。多額の借金を抱えるランディガードは、協力者に妻を誘拐させて身代金を受け取る「狂言誘拐」を計画する。しかし、いくつもの不確定要素を抱えたその計画は綻びみせ始め、ついには破綻していまう。殺人事件にまで発展してしまうと、もはや単なる冗談としては通用しない。婦人や義父、その他登場人物たちの死は誤魔化しようのない現実であり、冗談で済まされるものでなくなった。


 「冗談が冗談にならない光景」を前に大抵の人間はパニックに陥るものだ。嘘のような現実を受け入れるのは、それだけハードルが高いということだろう。信じたくないという想いが人を現実から遠退ける。狂言誘拐の発案者である主人公ジェリーは、女性署長マージの詰問されて逃亡した。一人息子を家に残して、彼はホテルの一室に立て籠もったところを逮捕された。


 狂言誘拐の実行犯役であるウェイドは怒りに震えた。それもそのはず、当初の計画に殺人は含まれていなかったのだ。死体が積み重なっていくうちに焦燥感を覚え、最終的に人質交換時に受けた銃弾の痛みによってその怒りは頂点に達した。ろくに返事もしない相棒ゲアに怒りの矛先を向けたとき、ウェイドの命運は途絶えた。再登場が片足一本のみとは誰が想像するだろうか。怒りが寿命を縮めるとはまさにことのことである。


 死体を木材粉砕機で粉微塵にしているところを御用となった巨漢の男ゲア。自らの考えを一切口にしないため冷徹な殺人鬼のようにみえる。結局ゲアは、女性署長からの問いかけにも答えず最後まで口を閉ざしたままだった。そんな彼は「冗談が冗談にならない」光景を前に沈黙を貫いたといえるだろう。

 

 本作は、人の死を嘆くわけでもなく悲しむわけでもなくただ淡々と描写している。最初の犠牲者となった警官も、運悪く殺人の現場に居合わせた目撃者も、人の命などその程度だといわんばかりに平等にそして呆気なく殺されていく。人質として捕らえられたはずのガンダーソン婦人には死亡シーンすら用意されていない。


 全体的に人の死に対して諦観のようなものが感じとれる。おそらく、取り返しのつかない不可逆現象として死を描くことに意味があったのだろう。死を馬鹿にしたり愚弄したりしてはいけないと私たちはそう教わる。殺人だけは冗談にならない、そう教育されてきたはずだ。


 本作においては、この死という現象も「冗談が冗談にならない光景」の一例に過ぎない。私たちは「冗談が冗談にならない光景」を前に、ときに諦めなければいけないのだろう。周期的に訪れる冬の季節と同じように、人は死を粛々と受けとめるしかない。

 

 

 さて、最後の最後で種明かしすると「ファーゴ」は完全なるフィクション作品だ。史実に基づいたという序盤の注意書き、アレは観客を呼び寄せるための口実で、製作者サイドの真っ赤な嘘だった。

 しかしその嘘に我々は安堵してはいけない。むしろ「冗談が冗談にならない光景」を完成させるため「ファーゴ」はこれからも実話であるべきだ。これは勝手な憶測に過ぎないが、本作は観客を試しているのかもしれない。「冗談が冗談にならない」その光景を前に人々はどう振る舞うべきか、私たちに問いかけている。その意味で、私たちは映画体験という実験に付き合わされたといえるだろう。


 「ファーゴ」は、本作がフィクションだと知らない観客をこれからも騙し続ける。底意地の悪い冗談を幾度となく迫るはずだ。悪意を具現化したようなその光景は、しかし同時に真実でもある。作品は嘘だったとしても、そこで描かれるテーマは紛れもない本物なのだから。
 今の時代、ネットで調べてしまえば「ファーゴ」の用意した嘘にはすぐ勘付けるはずだ。しかしときに騙されてみるのも悪くない。嘘に価値を見出してそこでようやく楽しめる作品というのも世の中には存在するのだ。

 

 

 

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