暫定語意

虚構、創作あるいはフィクションに纏わる話

映画「複製された男」 顕在化する欲望 

原作 ジョゼ・サラマーゴ
監督 ドゥニ・ヴィルヌーヴ
出演 ジェイク・ギレンホールメラニー・ロランサラ・ガドン

 

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 大学で講師を務めるアダムはある日、自分と瓜二つの外見をした映画俳優を目撃する。役者の名前はアンソニー。知的好奇心からアダムはアンソニーとの接触を図る。二人の出会いは悲劇の幕開けだった。

 


 作り手の苦労が窺える作品である。というのも今の御時世、男女の愛憎劇だけでヒット作を生み出すというのは、なかなかにハードルが高い。この手のジャンルはもう何百年も前から成立しているので、真面目に作ったところで過去の良作には手も足も出ない。舌の肥えた観客は同じような物語の展開に飽き飽きしている。彼らを騙すためにはどうしても一工夫必要となる。

 

 他ジャンルと組み合わせるというのは一つのアイディアかもしれない。SF的アイディアを詰め込むことで、ありきたりなテーマも、真新しいものへ生まれ変わる。しかしそれはあくまでもSFという別のテーマを同時に扱い切れたらの話である。生半可な試みではいずれも中途半端に終わってしまうだろう。

 

 残念ながら、本作にSFの醍醐味を期待することはできない。あくまでも、本筋を盛り上げるための一要素だと割り切って楽しむぐらいが丁度いいだろう。なぜなら、本作は「男がなぜ複製されたのか」といった生誕の起源に迫る物語ではなく、むしろ、「男はなぜ複製されてしまうのか」という人の性に関する話であるのだから。

 


 同一人物の二面性を描いた作品、というのが解釈として妥当なところだろう。アダムとアンソニーを別の人間として捉えるのではなく、同一人物として考えると、本作をより楽しめる。また、難解なように思えるラストも、蜘蛛が何の象徴か考えればすぐ答えが見つかるはずだ。


 本作が気に入ったという人は同監督の別作品に手を伸ばしてみるのもいいだろう。ヴィルヌーヴの男女観を知るためには、この一作だけではどうしても足りない。それ以外にも、別監督のやり口と比較してみてもいいだろう。人格の分裂という点では、デヴィッド・フィンチャー監督の「ファイト・クラブ 」、男女の支配関係という点では同監督の「ゴーン・ガール 」あたりがアイディア的にもかなり近い。興味のある人はぜひこちらもチェックしてみて欲しい。

 


 それにしても、翻訳者はなぜこの邦題にしたのだろうか。原題は「Enemy」で「敵」を意味する単語である。「内に秘める欲望」「異性に対する支配欲」を「敵」とし仮定すればたしかに物語の謎とも合致する。 一方で、邦題はなぜか「複製された男」である。「複製された」という言葉のニュアンスからどうしても受身の姿勢を連想させられる。主人公以外の第三者の手によって「複製された」のか。だとしたらその人物とは何を指すのか? 男性を誑かす存在、今作のラストにも登場した蜘蛛だろうか。浮気する男が悪いのか、男性を誘惑する悪いのか。卵が先か鶏が先か。あまりにも不毛な議論である。不毛すぎるので今回はこのあたりで切り上げておくことにする。

 

 

 

 

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