暫定語意

虚構、創作あるいはフィクションに纏わる話

映画「スリー・ビルボード」 その炎は誰を焼く


監督 マーティン・マクドナー
出演 フランシス・マクドーマンド、ウッディ・ハレルソン、サム・ロックウェル

 

f:id:ScenarioGoma:20180220192549j:plain

 

 

 よく晴れた休日の午後、気分転換にあなたはドライブへ出掛ける。お気に入りのバンドのCDをオーディオにセットし、缶コーヒーを啜りながら自慢の愛車で田舎道を走り抜ける。そしてその道中、不思議な光景を目の当たりにする。道路と芝生しかない開けた平地に、赤い看板が三つ並んでいた。看板には次のように書かれている。


「娘はレイプして焼き殺された」


「未だに犯人は見つからない」

 

「どうして、ロビー署長?」


 メッセージを無視することはできない。あなたの手にはハンドルが握られていて、もし目を瞑れば、些細な運転ミスで愛車は鉄屑と化してしまうかもしれない。


 レイプ。焼き殺された。犯人。見つからない。視界の隅に入ったキーワードが脳裏に焼き付く。思い浮かぶのは泣き叫ぶ少女の悲鳴。ガソリンをかける殺人犯。焼け焦げた血跡。あなたはこれ以上ないほど世の中の理不尽さを意識させられる。胸中にドス黒い感情が渦巻く。食事が喉を通るわけもなく、至福のランチタイムは一気に苦行へと変わる。


 広告というのは不特定多数の人間に向けて作られたものがほとんどだ。広告会社は新規顧客獲得を求める企業のため、あらゆる場所に看板を設置する。それは「無差別の攻撃」と言い換えることができるかもしれない。赤い看板に書かれたメッセージ、それらはあなた以外の人間の目にも映る可能性がある。比較的良識のある大人にも、言葉の意味が理解できない子供にも、異国人にも、差別主義者にも、看板に書かれたメッセージは半強制的に、公平に伝達する。広告の凶暴性はそれだけではない。何より恐ろしいのは「言葉のもつ意味」ではなく「言葉」だけが伝わってしまうという点だ。メッセージを遺した者の意思とは関係なく、表層的な記号だけが唯一の事実として広まっていく。人々はそれぞれの都合良いようにメッセージを解釈し、事実をねじ曲げ、真実を隠蔽する。

 

 「スリー・ビルボード」が繰り返し描く光景は「無差別の攻撃」だ。最初は単に娘を失った母親の暴走だったのかもしれない。しかし、その炎は確実に無関係だった人間を巻き込み、際限なく燃え広がっていく。


 スクリーンの出来事は決して他人事などではない。私たちが生きる今この瞬間とも確実に繋がっている。TwitterFacebookなどのソーシャルメディアの弊害がそのわかりやすい例だろう。SNSに投稿されたメッセージは世界中の人間が閲覧することができる。日常的の一コマや友人との他愛のない会話、それらは本人の意思とは関係なく、世界中の人たちと共有される可能性がある。もし、ある情報発信者の投稿に過激な表現が混ざってしたとして、それは「無差別の攻撃」といえるのではないだろうか。匿名で投稿されたメッセージの内容に名を伏せた誰かが傷つき、傷付いた誰かが別の誰かに不快な言葉を浴びせる。SNSの手軽さと拡散&共有のシステムが背中を押す形で、結果、個人ではどうにもならないレベルまで事態は悪化する。


 ネット社会と田舎町、舞台が違えど共通点は多い。インターネットの普及により世界は一つになった、とまではいかなくとも、人と人との距離は以前よりも格段に近づきつつある。隣人からの評判を気にしなくては生きていけなかったあの時代を、現代社会は再び繰り返そうとしている。


 情報伝達の速さは、まさに村社会のそれといえるだろう。作中でも、三つの看板は普段人通らないような田舎道に設置してあったはずだった。にもかかわらず、しばらくしない間に地元のメディアが取り上げているところをみると、噂が広まるスピードは驚くほど早いことがわかる。
 正義の味方であるはずの警察が上手く機能しないという点も共通している。現実世界に比べればネットの世界は無法地帯もいいところだ。罰則が十分に機能していないケースも多々存在する。・・・・・・やはり警察は信用できない。ならば自分たちが動くしかない。そのような心境の変化はごく自然な成り行きにも思える。皮肉なことに、その前向きな行動力こそが無秩序の混乱を招き入れる要因なのだ。感情に身を任せた不当な暴力、住民による私刑を許容してしまうのである。

 

 

 復讐が復讐を生む、そういった類いの作品は山ほどある。復讐は何も生まないという言葉で締めくくられるのが大抵のオチだが、本作はそれらの作品とはちょっとだけ一線を画すように感じられる。「スリー・ビルボード」は「無差別の攻撃」を描き続ける。この物語に明確な敵役はいない。むしろ、敵の不在こそが本作の主題なのだろう以前のエントリーで「スタンドバイミー」のプロットは父親を越えることだと書いたが、本作はまさしくその逆で、そもそも父が登場しない。ミルドレッドの元夫であるチャーリーは家を出て行ってしまっているし、もう一人の主人公であるディクソン巡査の父親はそもそも登場しない。作中唯一しっかり者の父親役として描写されているロビー署長に至っては物語中盤で退場してしまう。


 敵がいない? 越えるべき相手がいない? ならお前ら全員敵だ。そう言わんばかりに作中で問題を起こす登場人物たちは、自ら外敵を生み出し、そして自滅一歩手前まで追い詰められていく。そして、遂に破滅――ではなく踏みとどまろうとする。 せめて身の回りの大切な人を傷つけないようにと、彼らは物語の表舞台から姿を消すのである。


 殺害された娘の弔いに別のレイプ犯を殺しに行かないかと、ディクソン巡査は提案する。ミルドレッドは最初こそ同意したが、目的地への移動中に「あまり乗り気ではない」と拒絶する。ディクソンも同じ言葉を口にする。おそらく、彼女たちはただ口実を求めていたのだろう。事件とは無関係の人々が被害に巻き込まれる、そんな虚しいだけの繰り返しの光景から脱却しようと試みた。だからこそ、二人は目的地のない旅へと出掛けるのだ。


 二人の逃避行はおそらく成功するだろう。ミズーリ州から脱出すれば二人を知る者はいない。新しい町で何も知らない人々と過去を捨てて仲良く暮らしていけばいい。
 しかしネット社会はどうだろうか。現実と切っても切り離せなくなりつつある世界に逃走経路などあるものだろうか。「スリー・ビルボード」はそう我々に問いかける。